待望特別掲載 ラヂオプレス広報誌



ラヂオプレス五十年のスクープ

1996年1月発行

岡崎研究所主任研究員
小川 彰

(本文中で紹介されております新聞記事などの図版はホームページ掲載時に省略しました。)

ラヂオプレスは1996年1月に50周年を迎える。50年間には沢山のスクープがあったはずである。だが、初代外務省情報調査局長で、国際情報・戦略の専門家岡崎久彦氏は「そういう見方は地味なラヂオプレスには気の毒だ」と言う。「毎日24時間体制で海外放送を聴いているから、今日はニュースがないというのも立派なニュースだ。だから50年間毎日がスクープであり、ねぎらいの気持ちでいっぱいだ」と言う。さはさりながら、スクープで素人にもわかりやすいのは金日成主席死去のニュースであろう。

94年7月9日、午前9時50分、その日は土曜日だが、ラヂオプレス副理事長本村忠大は若松町のデスクに出勤した。その日から21日前にカーター金日成会談が行われ、流動的な北朝鮮情勢に対応するために3人の朝鮮語モニターが配されていた。

午前10時、平壌放送に耳を傾けていたラヂオプレス朝鮮語スタッフ足立利行は本村をスタッフルームに呼びこんで言った。「正午にテクピョルパンソン(特別放送)です」10時8分、ラデオプレスは契約先の各メディアや官庁にこれを速報配信した。

その頃、本村はスタッフルームで仁王立ちになっていた。平壌放送が10時30分、11 時、同20分に特別放送の予告を繰り返し放送し、同40分には金日成主席を賛える歌を流しはじめたからである。

本村は当時を回想して言う。「わたしたちは翌日が金日成主席の実父生誕百周年からだろうとも考えましが、それなら重大放送というべきです。特別放送ならば金日成個人に関するニュースに違いないとスタッフが判断しました。ところで、うちのスタッフは、もともと専門語学ができ、さらにほとんどが留学経験を持ち、それが10年の研鑽を経て語学だけでなく情勢判断で一人前になった者たちです。そういう担当者が、何年も継続して聴いているから、「特別放送」が前例の無い表現であり、流れた歌が金日成を賛える歌であることがわかったのです。語学はできて当り前、その上に朝鮮半島情勢や北朝鮮の内部事情に詳しくないとモニターは勤まりません。アイロンを使う家庭は届け出ろという放送があったら、即座に電力事情の悪化を推理する頭が要求されるのです」

時計が正午を打った。ヘッドフォンから流れる音声に耳を傾ける足立が本村の目の前でメモを走らせる。党中央委...党軍事委...という文字が踊る。「これは大変だ。こんな表現で始まるのは特大級のニュースに違いない」と本村は直感した。ほんの数秒後、足立が突然大声をあげた。「金日成主席が死んだ!」急いで録音が確認され、 午後零時2分、ラヂオプレスは「金日成死去」第1報を契約先にファクスで一斉に流した。細切れの続報は続く。同19分に「葬儀委員長は金正日」、同25分に「死因は心臓病」、同32分に「追悼大会は17日」と、フラッシュ(至急報)のつるべ打ちでラヂオプレスが世界を驚愕させたのであった。

NHKは昼のニュースのナポリ・サミットの現地報告を中断した。民放各局もこれに続いた。テレビ朝日は零時18分56秒に速報スーパーを流し、同23分37秒には早くも外 報デスクのコメントをカットインした。日本テレビは、ビートたけしの番組を再放送中だったが、たまたま別の番組で来社中の岡崎を長谷川秀春報道総務が引き留め、3時開始の特番のコメンテーターに迎える幸運に恵まれた。テレビ各局はコメンテータ ーの確保競争に突入した。スタジオに足止めされた岡崎は回想して言う。「コメントするといっても、ラヂオプレスから情報が来ないと何も言えなかった」  そのころ、ラヂオプレスは、読み上げられた葬儀委員会出席者273名の長大な名 簿の人名と肩書の割り出しに追われていた。日本ではほとんど名を聞かない人が大多数を占める。過去の放送から割り出して蓄積した名簿をたよりに作業には8時間を要した。

「報道合戦は地味なわれわれには無縁の世界です。われわれは淡々と守備位置を守るだけです。これは先輩が50年間続けてきたことなのです」と本村は言う。次に紹介するスクープはすべて、このようにしてもたらされたものである。

戦前、ラヂオプレスの前身となる外務省情報部ラヂオ室を創設したのは、情報部調査三課事務官樺山資英である。このひとは、欧州帰りのアマチュア無線愛好家で、VOA(Voice of America)などの諸外国の中短波放送を傍受するラヂオ室が外務省内に誕 生したのはひとえに彼の先見の明によるといってよい。先見の明と言うのは、戦争末期に連合国のポツダム宣言受諾の呼びかけのラジオ放送をモニターすることになるのもラヂオ室であるからだ。

戦後、占領軍は外務省の耳ともいえるラヂオ室を取り潰そうとしたが、これに抵抗し、存続させたのも樺山だった。彼はラヂオ室を外務省の外に出し、海外放送受信専門の民間通信社としてかろうじて生き残らせたのである。かくして、46年1月にラヂ オプレスは事業を開始した。だから、96年1月に50周年をむかえることになる。  戦後間もないころ、ラヂオプレスがもたらす価値ある情報はGHQの占領政策に関す るものが多かった。民間がモニタリング会社を経営するという世界に類のない苦難の 道をラヂオプレスは歩むが、発足当初に経営基盤を確立したのは、奇抜な作戦だった 。ラヂオプレスは、当時夕刊紙だった東京新聞にニュースの無料配信を始めたのだ。 その結果、朝日、読売、毎日が有料配信契約を結ばざるを得なくなった。だが、これは、むしろ戦後草創期の気骨のある言論人がラヂオプレスの事業を積極的に支えた証拠といってもよい。たとえば、大阪朝日外報部長前田義徳(のちにNHK会長)は大阪 で援助を惜しまず、また、ラヂオプレスが有楽町読売会館(1945-54)やフジテレビ別館(1964-89)に間借りできたのも、その時々の気骨ある経営者の善意によるものであった。

50年間のモニタリングの歴史をつまみ食いすると、まず、昭和1951年1月15日のマッカーサー元帥の動向を報じる毎日新聞号外は占領時代の典型的なスクープである。 冷戦が始まると、ラヂオプレスは共産圏の放送受信に傾注した。朝鮮戦争では「ラヂオプレスが東京で聴く北京放送」が各紙のトップをしばしば飾った。たとえば、19 51年7月5日の毎日新聞「共産軍リッジウェー大将提案を受諾」がそれである。  ベトナム戦争では、読売新聞1972年5月30日号外「モスクワ宣言調印」の記事を一例として紹介するが、この事例のように派手な見出しの特派員電を、裏で支えるのは「ラヂオプレスが聴いたモスクワ放送」であった。  朝日新聞1954年7月1日付「ソ連で原子力発電」は、ソ連の原子力利用が 産業の段階に達したことを誇示するモスクワ放送に基づく報道であるが、ソ連の人工衛星、原水爆の実験をいつも最初に報じるのはラヂオプレスであった。

中国についても同様だが、ここでは1967年6月18日の「ラヂオプレスが伝える北京放送」による読売新聞「中国、初の水爆実験成功」を例示する。  いちいち挙げては際限がないが、共産圏の政変や東西の危機の度に、ラヂオプレスが伝える「新華社報道全文」や首脳の「書簡全文」が一般紙のトップを飾ったのである。  最後に、ラヂオプレスの速報をのぞいてみよう。これは、1989年6月4日の 天安門事件の前夜の緊迫を如実に伝える「ラヂオプレス中国ニュース」の抜粋である 。3日夜8時の北京放送の受信記録で「街頭に出るな、天安門広場に行くな」と題する北京市政府・戒厳部隊指揮部の緊急通告が報告されている。

参考資料

放送文化 平成6年9月号 日本放送出版協会 40ー43頁

ラジオの製作 平成6年10月号 電波新聞社  189ー191頁

世界週報 1994年8月16日 20ー21頁

サンケイ新聞 平成6年7月12日、7月26日

朝日新聞 平成6年4月14日、7月21日

「ラヂオプレス50年」米山司郎(共同通信記者)文芸春秋 95年8月号 82-83頁

おわり



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