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【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 中国進出を招いた「10年の眠り」
佐藤一斎の言志四録(げんししろく)に耳なれない言葉を見つけた。曰(いわ)く、「吾古今(ここん)の人主(じんしゅ)(君主のこと)を観(み)るに。志の文治(ぶんち)に存する者は必ず業(ぎょう)を創(はじ)め(創業)、武備を忘れざる者は良く成るを守る(守成(しゅせい))」。
これは江戸時代のインテリなら誰でも知っている唐の太宗の「貞観(じょうがん)政要」の一節を意識して、その裏の真理を語ったものと思う。
≪平和でも防衛を忘れない≫
貞観10年、太宗は、待臣に「帝王の業、草創(そうそう)と守成といずれが難(かた)き」と問うた。これに対して房玄齢(ぼうげんれい)は、戦乱の中で勝ち抜いて天下を取る方が難しいと言い、魏徴(ぎちょう)は「天下を取った後で民生を安定させる方が難しい」と言った。そこで太宗は、両方の理を認めつつ、今や創業の時代は過ぎて、守成の時代だから民生の安定に取り組もう、と言ったという。
天下統一は武力で、平和達成後は文治で民生を守るという常識的な議論である。それに対して佐藤一斎は、戦乱時代でも常に文治を考える指導者が天下を取り(実は後漢の光武帝はそうだった)、平和になった後では、治にあっても乱を忘れず、武備を怠らない政権が長続きすると言っているのである。「この平和な時代に、どうしてこんな防衛力が要るんですか」と訊く政治家や財務省の主計官に聞かせたい言葉である。
≪「極限状態」を想定すること≫
もう一つ最近読んだ本の話。
財務省出身の高官で、松元崇という人が、高橋是清の伝記を中心に日本財政史を発刊した。彼は、私もかねてからの知己である大秀才で、内容は明快、直截、日本財政史の名著であると思う。
ただ、その中で、日露戦争は財政敗戦だったと書いてある。賠償金も取れず莫大(ばくだい)な負債を負ったから敗戦だという趣旨である。
これは国家戦略とか安全保障というものは極限状況を想定しなければいけないという原則を忘却している議論である。
財政という同じ土俵の上に立ってみても、もし日本がロシアに負けていたならば、その10年前の日清戦争の清国、その10年後の第一次大戦のドイツの例のような莫大な賠償金を課せられ、(事実上実現不可能な)完済までの間は、関税収入の差し押さえ、北海道、対馬の担保も強制されたであろう。それとの差し引きを考えれば、日露戦争は国家財政の命運にかかわる大勝利であったといえる。
要は、古来言われているように一朝有事に備えるのが国防である。如何(いか)に現在が平和でも、国家国民の存亡がかかる100年に1度の非常事態に備えて軍事バランスを維持するのが国防である。
ところが日本の国防費は過去10年以上にわたって減り続けている。米国の国防費も冷戦終結以降減り続けたが、それでは装備は老朽化し、軍の士気や軍自体の基礎が揺らぐので、すでに9・11テロの前から漸増に転じていた。
米国は、世界の安全保障を守る責任をになっているが、財政難もあり、最近とみに、その負担の分担を希望している。シーファー先任駐日大使、現在のルース大使も、一貫して日本に防衛費の応分の負担を求めている。特に鳩山政権が米国と対等の関係を欲すると言うのならば、世界の安全保障維持のためのより対等な負担をになうことを求めると言っている。
意外に知られていないが、最近の日米関係を論じる米紙の論調を見ても、GDPの1%にも足りない防衛費の増額は、現在緊張している日米同盟の救済にとって、まぎれもなく一つの切り札である。
≪東シナ海での優位も失った≫
日本の防衛力は1980年代の増強で90年代半ばまでかなり高い比較的水準を維持していたが、その後老朽化が進み、抜本的改新の時期に来ている。この点は昨年末に予定されていた防衛計画の新大綱で見直されるはずであったが、それも延期されたままである。
その間中国の軍備の躍進は目覚ましい。尖閣問題なども、今までなら、不法侵入や占拠に対しては海上保安庁で楽に処理できた。その背後には、日本が東シナ海の制海権、制空権を持っていたからである。
もう10年以上前になるが中国が東シナ海に進出し出してきたころ、私は、日本が本気を出せば中国海空軍などは鎧袖(がいしゅう)一触であり、日本は眠れる獅子なのだから、挑発すべきでない、と中国に警告したことがある。それから10年日本は眠り続け、中国の軍事力は躍進した。もう、東シナ海のバランスで日本優位は過去のこととなった。中国が制海、制空の絶対優勢を持つのも時間の問題であろう。
防衛費の増額と言うとまず陸を減らせという議論になる。たしかに、海空のバランス回復は最優先事項であるが、それは陸の節約位ではカバー出来ないものであることは認識すべきである。また、節約するとしても、陸の真髄(しんずい)は良く訓練された要員を持つことである。それは、万が一の場合に備えても、また、災害救助、PKO(国連平和維持活動)についても、絶対に必要である。したがって、陸の人員と教育訓練費だけは絶対に削ってはいけない。(おかざき ひさひこ)
『産経新聞』東京朝刊 2010年3月17日 掲載
日本政府がイラクへの航空自衛隊派遣の2年間延長を決定したことは、日米同盟の強化のためにこそ意義がある。日本は自国の安定と繁栄のために、ブッシュ米政権がイラク政策をめぐり困難な状態に陥っている今こそ、米国と共同歩調をとるべきだ。
ブッシュ政権は昨年11月の中間選挙での共和党敗北で「イラク戦争は失敗」との烙印を押された。民主党はブッシュ大統領の批判に躍起だ。上下両院で、イラク戦費を盛り込んだ補正予算案に関し、イラク駐留米軍の撤退期限を明記した法案が通った。ブッシュ大統領は拒否権を発動する意向だが、米国のイラク政策を占う上で重要な局面を迎えている。
キッシンジャー元国務長官は3月末に来日した際、「米国は予算さえつけばベトナム戦争に勝っていた」と話していた。米国がイラク政策にカネを支出できない状態に陥れば、ベトナム戦争の二の舞になる懸念もある。
21世紀は日米同盟と中国が対峙する国際環境になるだろう。日米同盟は日本の未来に欠かせない。米国のイラク統治は成功だったとは言い難い。しかし、相手が困っているときこそ、協力して関係を強化するチャンスだ。日本は米国と歩調を合わせるべきで、最後まで自衛隊を撤退すべきではない。
(談)
展示修正にあたっての私の目的は、ひとことで言えば、靖国神社の知的品位(英語ではインテレクチュアル・インテグリティー。知的正直さといっても良い)を守ることにあった。
知的な不正直さ、牽強付会な弁解ととられる見苦しい表現などを除くことが第一の基準である。ほかの物差し、特に特定外国の反応についての思惑は、意図的に考慮から除外した。記述の知的品格が第一であり、それが、変転する国際情勢において、外国でどういう反応があるかは考慮外としたのである。
こういう抽象的な言い方より、単刀直入に問題点を説明したほうが良いかもしれない。
■ハル・ノート
ルーズベルト(注1)が大不況から抜け出すために日本に戦争を強制したという記述は、歴史上の事実ではないし、いかにもげすの勘ぐりの印象を与えて靖国の権威を汚すと思ったので真っ先に削除した。
しかし、ハル・ノート(注2)は事実上交渉の打ち切りであり、後は日本の攻撃を待つだけだということを意味するスチムソン日記(注3)の新たな引用には異議を唱えなかった。
ルーズベルトが何とかして日本に最初の一発を撃たせるように仕向けたことは歴史の事実であり、これを指摘することは、靖国の知的品格をなんら傷つけるものではないからである。
キッシンジャー(注4)は著書『外交』の中で書いている。「ルーズベルトは日本が(ハル・ノートを)受諾する可能性がないと知っていたにちがいない。アメリカの参戦は偉大で勇気ある指導者の並々ならぬ努力が達成した大きな成果であった」
日本が直接アメリカを攻撃しなければ、「彼の仕事はもっと複雑だったろう。しかし彼の道義上かつ戦略上の確信に照らせば、結局は彼が自由の未来とアメリカの安全にとって不可欠と考えた戦争にアメリカを参加させたことはほとんど疑いない」
私はこの解釈に賛成である。ルーズベルトが日本を戦争に追い込んだのは、不況からの脱出のためというよりも、ルーズベルトから見てのアメリカの戦略的、道義的観点からだったというのがより正確であろう。だから私は日米戦争に至る経緯の中に1937年の隔離演説(注5)の特記を必要と考えたのである。
■「北支工作」
支那事変(日中戦争)については、その発端となった盧溝橋事件(注6)、それを早期に解決しようとしているさなかに次々に起きて解決を不可能にした広安門事件(注7)、通州事件(注8)、それから北京の局地的事件を全面戦争に導いてしまった第二次上海事変(注9)、これがことごとく中国側の挑発によるものであることは歴史的事実であり、この点を譲歩する気は全くない。
敗戦後、張作霖爆殺事件(注10)、満州事変(注11)、第一次上海事変(注12)などの背後に日本軍の関与があったことが明るみに出たが、支那事変勃発の経緯については、東京裁判の中でさえ、日本側の責任は問われていない。
ただ、私は前記アメリカの場合と同様、だから中国が悪いと言っているわけではない。もともと歴史は真実を求めるべきものであり、その是非善悪を論ずるためのものではない。しかし、中国側がそこまで挑発した原因としては、そこに至る日本軍の行動がある。
特に、満州事変後の日中関係が1933年の塘沽停戦協定(注13)で一応の安定を見た後の、日本側による長城以南の北支工作(注14)こそ戦争の原因といえる。戦争責任をすべて軍に課する一部戦後の史観には、客観的な史実の上で欠陥があるが、この北支工作については、出先の軍の独走であり、これが日本の国を誤った最大の原因であることは疑いない。
蒋介石の回顧録を読んでも、むしろ共産党との対決を優先させようとしていた蒋介石が、日本軍の北支工作に腸(はらわた)の煮えくり返るような思いをしていたのがわかる。
そして西安事件(注15)以後、抗日統一戦線の機運の盛り上がっていた中国において、もうこれ以上日本の横暴を許さないという雰囲気が瀰漫(びまん)していたのは事実であり、それが支那事変当初の、中国側のイニシアチブによる数々の事件の背景にある。
だから、今回の作業で、支那事変に至る経緯説明の中に、「北支工作」の4字が入った瞬間、私は今回の作業の目的の半ばが達成された思いであった。
なお、南京事件(注16)については確実な史実に基づいて書けるのはここまでというところでとどめてある原文を尊重した。外国の反応をおもんぱかっての、それ以上の修正は、伝聞やプロパガンダの説の引用となり、そうすることは靖国の知的品格を傷つけるものと思う。
■靖国神社
この種の作業は、本来は、全部初めから書き直すべきものであり、いつかはそれが必要であろう。部分的に直しを重ねたのでは最終的完成度にどうしても限界がある。したがって現在のところ各種批判に対する答えは修正前と比較してみてくださいというしかない。
しかし今回の新しい展示の内容について、私は全責任を取る覚悟がある。すべての修正や追加を私が提案したものでなくても、少なくとも私が了承したものである。
今回ほど私が無位無官であることをありがたく思ったことはない。私が、政府の補佐官とか参与とかの肩書を持っていれば、到底こういう仕事はできなかった。「総理に報告していますか」とカマをかける新聞記者もいたが、そういうことは全くない。おそらくは総理は私のしていることをご存じないと思う。
世の中には完全なものはないし、まして歴史は百人百様の解釈が有り得る。政府が責任を持てるはずはない。悪いところがあれば、「悪いのは岡崎」である。
この作業の過程で、私は昨夏以来10回以上も靖国神社を訪れた。当然その都度参拝した。初めは今まで通りの普通の礼拝だったが、回を重ねている中にやはりこれは尋常の神社でないということが肌で分かってきた。
200万以上の霊、中には例外はあっても、そのほとんどがお国のための犠牲と観念して亡くなった霊のまします場所など世界でも例が少ないであろう。表示に従って二礼二拍手一礼すると、別世界に入って心が洗われる感がする。
今まで知らなかったそういう世界があることが分かるようになっただけでもありがたいことと思っている。
【注釈】
(注1)フランクリン・ルーズベルト(1882~1945年)。日米開戦時の米大統領(第32代)。米国史上ただ1人、4選された。民主党出身。
(注2)1941年(昭和16年)11月27日に米国から日本に提示された提案。中国、インドシナからの撤兵、日独伊三国同盟の事実上の廃棄を要求した。
(注3)国務長官だったスチムソンは1941年11月25日の日記に、ルーズベルト大統領が「次の月曜日に攻撃を受ける可能性がある」「最初の発砲をするような立場に日本をいかに追い込むか」と発言したことを記している。
(注4)米ニクソン政権の国家安全保障担当大統領補佐官、フォード政権の国務長官。1971年に極秘裏に2度訪中し、米中国交正常化の道筋をつけた。
(注5)日中戦争勃発(ぼっぱつ)を受けルーズベルト大統領は日本を批判し、「世界に不法状態を生み出している国家を、平和を愛する国民の共同行動によって国際社会から隔離すべきだ」と述べた。
(注6)1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で起きた発砲事件。日本と中国(国民党政府)の全面戦争につながった。
(注7)1937年(昭和12年)7月25日、日本人居留民の保護目的で北京・広安門を通過中の日本軍が中国兵から射撃された事件。
(注8)1937年(昭和12年)7月29日、北京東方の通州で、非戦闘員である日本人居留民約200人が、女性や子供も含めて中国保安隊に虐殺された事件。
(注9)1937年8月13日、上海租界の日本人居留民を警備・保護していた日本海軍陸戦隊に対し、20万の国民党軍が攻撃。海軍は陸軍に派兵を要請し、南京空爆を実施した。
(注10)1928年(昭和3年)6月、関東軍が北京から奉天に向かう列車の中で、軍閥の張を爆殺した事件。
(注11)1931年(昭和6年)9月、奉天北部の柳条湖で満鉄線が何者かによって爆破された。関東軍は中国側によるものとして軍事行動を起こし、32年2月までに満州のほぼ全域を支配下に置いた。
(注12)1932年(昭和7年)1月、上海で日本人僧侶が殺害されたのをきっかけに日中間で衝突が起こり、戦闘は3月まで続いた。
(注13)1933年(昭和8年)5月、関東軍と国民党政府が河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定。河北省東部を非武装地帯とした。
(注14)1935年(昭和10年)ごろに関東軍の一部軍人らによって行われた、満州の南に満州国のようなかいらい国家を建てようとする工作。
(注15)1936年(昭和11年)12月、西安で起きた蒋介石監禁事件。対日不戦を主張していた蒋は、部下で張作霖の息子である張学良らによって監禁された。
(注16)1937年12月、日本軍は国民党政府の根拠地である南京を陥落させた。当時の南京の人口は約20万人だったのに、中国側は日本軍によって30万人が虐殺されたと主張している。
