『世論の憤激背景に「北」には強い姿勢で』

(産経新聞朝刊「正論」2002年9月22日)

岡崎久彦

<ベタ降りした北朝鮮>

 日朝首脳会談は、外交交渉としては完全な成功であった。二、三の点に若干の減点をつけても八〇点は与えられると思う。

 そもそも、何が日本側の基本的な狙いだったのかといえば、それは「包括的な」国交正常化交渉開始を合意させる事にあった。

 謝罪と補償を受けて植民地時代を清算する、これは北朝鮮の言う国交正常化である。これに対して日本側は、その後起った拉致事件、ミサイル、核、不審船等の問題も包括的に討議するのが正常化交渉だという立場であるが、今までの正常化交渉では、日本が拉致事件を持ち出すと、北側は席を蹴って立ってしまった。これを包括的に議題とする事、換言すれば、拉致事件が解決しない限り正常化交渉は妥結せず、したがって経済協力のお金も出ない事を先方に合意させる事が主眼であった。

 ところが先方はこの条件にはじめからベタ降りに降りてしまった。被拉致者の発表の内容が不十分という問題はあるが、今回の合意は「国交正常化の合意」でなく「正常化交渉再開の合意」である。つまり、今後の交渉でわが方の要求はいくらでも持ち出せるし、それが解決するまで交渉妥結はない、という事である。

 私は何も外務省のお先棒をかついで今回の交渉をほめるのではない。事実、今回は交渉の仕方が良かった、悪かったの問題以前に、先方が一方的に降りてしまったのである。

<イラク攻撃切迫という幸運>

 その裏には、北朝鮮経済の逼迫もあったのであろうが、外部からの働きがけが何か影響あったとすれば、それは米国のイラク攻撃が切迫しているという事情が大きかったであろう。つまり、北朝鮮をここまで降ろした第一の功は「悪の枢軸」発言だと言って不正確ではないのであろう。小泉首相と外務省は、こういう状況に居合せたという幸運を掴んだわけである。ただ私自身は小泉政権にまだ期待する所あり、その存続を希望するので、これは日本のために良い事だったと思っている。

 金正日氏個人の意向は、冒頭の「これから隣国になろう」という発言から見ても本気のように思える。むしろ交渉の過程で小出しにして日本側をじらす材料に使えた拉致者の消息をさらけ出し、あとは過去の行為の非人道性について一方的に日本の攻撃の矢面に立つ形を作った点について、部内に不満が残らないか、金正日氏自身の地位に影響しないかという方に関心が持たれる。

 さて今後どうするのか。日朝正常化について、日本は、相当規模の金を出さねばならないという、他国にはない事情がある。

<今後は安全保障問題が課題>

 北朝鮮はいつでも韓国を攻撃できる軍事態勢にある国である。これに対する経済援助は冷戦時代のソ連に対する経済援助のようなものと言える。金大中政権はそれでも良いというだろうが、より保守的な政権が後を継げば当然問題視されるであろう。

 更に、これは交渉の一つの減点でもあるが、核について北朝鮮は査察の受け容れは約束したが、核開発の完全放棄には言及していない。北に核疑惑が残るままで援助するということは、現在のイラクに援助すると同じ事にならないだろうか。つまり、理想的に言えば、北朝鮮が完全な平和国家となって、大量破壊兵器を開発しないし、通常兵力で南進する態勢もやめた時になって、真に友好的な隣人として経済援助をするのが最も望ましい。この理想に向けて、今後の交渉は安全保障問題を中心にじっくり腰を落ちつける事が望ましい。

 アメリカのイラク攻撃があるか、その前にイラクが大量破壊兵器を完全にあきらめるかした場合、その後の北朝鮮の立場が弱くなる事は目に見えている。それはもうこの数か月の間に解って来る事である。その情勢の推移に目を配りながら、じっくりと理想的な平和を追求する交渉を行うべきである。

 世論は拉致事件における過去の非人道的な行為に憤激している。こういう世論の支持の下ならば、朝鮮半島の恒久平和を目指す強い姿勢の交渉も十分可能であろう。

<外務省は独善的な情報操作を慎め>

 最後に外務省が情報の一部を秘匿したという事件については、私は在職中から厳しく指摘した所であるが、「これは言わないでおいた方が良い。」というような独善的な情報操作は余程の必要がない限り厳に慎むべきである。今回はほとんどその必要はなかったように思う。


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