岡崎久彦
(1)
この問題は、私の生涯の関心事項であり、いつかは――現在手がけている近代日本政治外交史が一段落した段階で――考えねばならないと思っていた。
このことはまだまだ先と思っていたのであるが、最近、一般の人には目立たないかたちであるが情報関係の重要性が識者のあいだで認識されてきた機運が見える。
平成十三年四月に発表された世界平和研究所の「日本の総合戦略大綱」は、実質的には中曽根元総理の国家戦略論であろうが、そのなかで「内閣官房に、各省庁をはじめ内外の情報を一元的に集中し、これをもとに内政及び外交についての国家戦略を策定するための『内閣調査局』を設置する。内閣調査局長官は法制局長官並みとする」と提案している。
平成十三年三月号以来、雑誌『諸君!』は、中西輝政氏の国家情報論を掲載している。まだ終わっていないが、第二次大戦を中心とする英米の情報機関の活動の実体を、氏の専門である国際政治史の観点から捉えたすぐれた論文である。
そして、やはり平成十三年になって、外務省において、松尾某による空前の規模の外交機密費詐欺事件があり、外交機密費を本来の目的である情報収集にいかに集中的に利用すべきかが今後の課題の一つになっている。
こういう状況のもとで、私が従来考えていたことを何らかのかたちで外に出して、世に問うたほうがよいのではないかと思うに至った。
(2)
問題は――それがいままで書きなずんできた理由でもあるが――これから書くことが私個人の経験と感想にもとづくものがきわめて大きいということである。情報活動、情報組織というものを論じた文献はほとんどない。部内の手引書のようなものはあるようであり、その説明を聞いたこともあるが、そのテキストはもっていない。文献を用いる正攻法はおそらく、中西教授の著作のように、外交史における機微に触れる決定に際しての情報機関の関与の実例を拾うことであろう。それはそれでよいとして、それと今後の日本の情報活動のあり方をどうするかという政策論、組織論とのあいだには大きなギャップがあり、それをいかに埋めるかが問題であって、そうなると実務の経験が意味をもってくることになる。
(3)
私は奇妙な経歴をもっている。
外務省というところは、語学の専門を除いては専門家を育てない。地域局にいたかと思うと、経済局に行かされ、それから文化広報とか領事事務をやらされたり、何でもさせられる。上級職の外交官については特定の分野の専門家をつくらない。これは、日本が国際社会に参入した十九世紀、外交の手本であった英国外務省の制度にならったものという。英国の外交官には大学で法律や経済でなく歴史や古典(ギリシア、ラテン)を学んだ者が多いが、それも、スペシャリストでなく、ジェネラリストを重んずる伝統が背景にある。
日本の外務省もだいたい同じであるが、これは英国の思想にもとづくというよりも、人事が行きあたりばったりである結果だという人もいる。これは逆もまた真であるかもしれず、私の場合は、まったくの偶然と思うが、役人時代、東京における役職は情報関係ばかりであった。
課長時代は、分析課長、調査課長、調査室長であった。その後短い期間、中近東アフリカ局参事官を務めたことはあったが、地域局といっても、中東はアメリカ、アジアと違って、日本にとっては政策よりも情報中心の地域である。その後は、防衛庁で、外務省出身者として初めて防衛局内の調査一課、二課の事務の所掌、統率を命じられ、冷戦の最盛期にソ連の軍事力を中心とする軍事情報の分析に従事した。そして防衛庁のあとは、米国の大学、研究所を巡ったあと、古巣の外務本省の企画調査部長、やがて組織改編で、初代の情報調査局長を務めた。その間、課長から局長まで二十年近く、米国のCIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局)、DIA(国防情報局)、INR(国務省情報調査局)、イスラエルのモサド、英独の情報機関等とは職業柄何度も何度も接触した。おそらく、課長以上の役職の人間で――つまり、特殊な職種の下士官クラスの人を除いて――各国の情報機関とこれほど密接に接触した人間はいままでもないし、これからも、右に述べた私の特殊な経歴から考えると、あまり出てこないのではないかと思う。
したがって、この小論も、私個人の経験が中心となって、まるで『日本経済新聞』の「私の履歴書」のようになってしまうことについて、読者のお許しを乞いたいと思う。おこがましいこととは思うが、他に方法もない。むしろ恥を忍んで発言すべきと思う。
(4)
事実、私個人の経験といっても、それは懺悔録のようなものである。
私が初代分析課長(着任時点は資料課長と呼ばれた)になったのは一九六六年、三十六歳の夏である。ちょうどそのとき文化大革命が始まり、百年近い歴史を誇る外務省の中国専門家たちが次々に情勢判断の過ちを犯す惨状を目のあたりにした。中国共産党は、ソ連共産党とちがって、革命意識に燃えた同志たちの集まりであり、ソ連型の権力闘争などありえない、と最後のころまで信じていた専門家もついには沈黙せざるをえなくなった。当時の中国課長が、「毛沢東は、もうわれわれが尊敬していた偉大な毛沢東じゃないんだ」と吐き捨てるようにいったのを覚えている。
それは、中国専門家にとっては試練の時であったが、専門家集団のなかに、若い課長として飛び込んだ私にとって幸運なスタートだったといえる。こと中国問題については、誰も彼もが、もう一度スタートラインに戻って出発しなければならなかったからである。
そして六六年、六七年と勉強が進み、情勢判断ではさして誤りもなく順調に過ごして、かなり自信もついたころ、六八年になって、情勢判断の恐ろしさと私の未熟さを、今度は自ら体験することになった。
当時の国際政治の焦点はベトナム戦争だった。六七年を通じて、ベトナムに派遣された米軍が五十万に達したのを見て、私はアメリカの決意と米軍の勝利を疑わなかった。六八年一月末のベトナム旧正月に解放戦線側が総攻撃をかけたときは、解放戦線側がそこまで追いつめられたと思った。その判断それ自体は正しかった。あとから考えれば、それまで隠れていた解放戦線側がいっせいに表に出たのだから、米側が落ち着いて鎮圧すれば南ベトナム内の共産分子剿滅のチャンスだったという。共産側としては、日に日に強化されるアメリカ側の増強を見て、一か八かの勝負に出たわけであった。しかし、問題は米国内の政治情勢だった。国内の反戦気運の前に、当時のジョンソン大統領はこの機会をとらえてもう一息戦争努力を続ける政治力をもたなかった。二月末にマクナマラ国防長官は辞任し、ウエストモーランド司令官は召還され、ジョンソン大統領は、北爆の部分的停止と大統領選不出馬を宣言した。米国が勝つというのがベトナム戦争の大局の趨勢だという私の判断の完敗であった。
次の失敗はチェコ事件である。
三月三十一日のジョンソン大統領の声明の直後、四月一日から、チェコスロヴァキアの共産党中央委員会は、自由化の行動綱領を提起して自由化を進めた。六月には新聞検閲を廃止し、知識人たちはいわゆる「二千語宣言」を出した。これが「プラハの春」である。これに対して、ソ連・東欧諸国はさまざまな圧力を加えたが、チェコ側は、八月三日のブラティスラバ会議でようやくこれを凌いだかに思えた。
世界中の評論、マスコミは――ヴィクター・ゾルザ氏とユーゴスラビアの一新聞を除いては――自由の勝利を讃え、いまや冷戦の時代は去り、東西デタントの新時代が到来したと謳った。プラハの市民たちは、長い夏の夜を徹し、街頭で歌い、踊り、誰彼となく抱擁しあって自由を謳歌したという。
それが八月二十日には、二十万のワルシャワ条約機構軍の侵入により無惨にも踏みにじられ、その後二十年間、再び共産党の専制の下に閉じ込められることになるのである。
この春から夏にかけて、私の課の分析は、東西デタントの動きを、世界の不可逆的な趨勢という考え方で一貫してきた。これは、右の二つの例外を除き世界の論調のすべて、そして日本の論調の百パーセントと同じ判断であったのだが、そんなこととは関係なく、私の判断の完全な敗北であった。
この二つの教訓を得たあとは、さして失敗もなかった。その間覚えた情勢判断のノウハウについては『国家と情報』第一章(文藝春秋)、『情報・戦略論ノート』第一章(PHP研究所)に述べているのでご参照願いたい。ところが、外務省の課長時代の勤務が終わったあとのワシントン在勤中に、職務上の本務ではなかったが、大失敗を犯すことになる。
じつは、もうあのころの私ならば犯さなくてよかった失敗だったのだが、いくつかの不運が重なった。
私は七一年二月着任後、四カ月ほど経済班の次席を務めた。その間、経済の業務を習うことに専念して情報関係の旧知との接触は自制してきた。六月末、文化広報の担当となった日、INR分析課長時代以来の旧知のホールドリッジ補佐官をホワイトハウスに初めて表敬訪問した。
そのときホールドリッジは、深刻な面もちで、「これから重大な旅行に出かける。その目的はニクソンがカンザスシティ市で行なった演説のとおりであるが、古い友人はけっして見捨てない」と述べた。これが、キッシンジャーの極秘訪中の予告だった。
当時、私はたんなる表敬のつもりだった。ホールドリッジはいつもしかめっ面らしい顔をしている人であり、しばらく会っていないので、その日は特別に深刻な顔をしたのかどうかの判断もつかなかった。すでにどんな情報に関心をもってもよい立場ではあったが、本来は政務班の任務に、就任当日の私がしゃしゃりでる幕でもないという常識的な判断もあった。「古い友人」とは当時おおいに議論されていた南ベトナム政府のことだと思った。カンザスシティ演説も、情文班の手元にはなかった。中国訪問の発表後、ハタと思い出して読んでみると、たしかにそう書いてある。
もしあのときに、せめてひと月前から、ピンポン外交以来の米中関係の軌跡が頭に入っていたならば、あるいは、すぐにカンザスシティ演説を求めてその行間を読もうという緊張感があれば――それはひと月もたてば私の日課になっていた――キッシンジャーの極秘の訪中は、七月十五日のいわゆるニクソン・ショックの二週間前に佐藤総理に予告できたはずだった。
(5)
もうそれからあとは、判断の誤りで胸をかきむしったような記憶はなくなっている。七八年から八一年まで、七八年のソ連地上軍の北方領土進出、七九年の中越戦争、年末のソ連によるアフガン侵攻、ソ連海軍の極東増強、カムラン湾進出等緊張が相次いだあいだ、防衛庁の情報担当の総括として、国会でも三百回の答弁をしたが、言葉尻を捉えられたことはあるが、情勢判断の誤りといえるようなものはしていない。その後、八二年から八四年まで、いまの国際情報局にあたる部局の長をしたが、国際情勢が中東以外は平静な時期でもあり、そのときも判断の誤りはしていない。
過去二十年間で、国際情勢がもっとも激動した時期は八九〜九一年(ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、ソ連邦解体)にかけて来る。そのころ私は在外の大使をしていたが、もう判断の誤りはしなくなっていた。
自慢めくという批判は覚悟のうえで、話の運びのうえで必要なので、例示としてそのころのことを書いておく。
八九年のベルリンの壁に至るソ連圏崩壊は、八八年に予想しておいた。時の村田次官に報告し、省内幹部会の記録にも残っている。当時の安倍自民党幹事長にも説明したが、八九年の春になって、「お前の受け売りで話して歩いているが、東欧で何も起こらないではないか……」といわれて、はずれたかとちょっと心配にはなったが、夏ごろからは東欧諸国がいっせいに崩れ、年末にベルリンの壁崩壊に至る。当時の政府発言も新聞も「何人も予想しえなかった事態」だといっていたが、見える人々には見えていた事態であった。
九〇年のイラクのクウェート侵攻の前日には、バンコクで中山外相を迎えていた。新聞しか情報はないが、明らかに戦争は切迫している。イラクはクウェートがとうてい呑めない条件を出している。軍隊は国境に集結しているという。真夏に水も日陰もない国境に機動部隊が集結している以上、近々に動きがなくてはならない。あるいは、タイ政府には米国から警告がきているが、外遊中の日本の外相は知らないのかもしれない。そこで、その晩の外相夕食会の前にクウェート情勢をブリーフィングしておいた。じつはあとで聞くと、アメリカは現地大使の楽観的な報告を信じてそこまで予想していなかったという。翌日、中山外相がラオスのビエンチャン一泊中に侵攻があり、外相は飛行場から直接大使公邸に来られて日本としての善後策を相談した。事変直後の三日間の日本の初動ぶりはいまでも褒められている。
八月末には休暇で帰京していたが、そのころから年末まで――これは、ほとんど日本国内だけといってよい奇異な現象であるが――半年間にわたっての論争は米軍が介入するかどうかであり、そうとうに良識がある人までが「米軍の武力介入を予想し、あるいは期待するがごときの言動は日本国憲法の平和主義に反する」というようなことをいっていた。
のちに総理となる某政治家は、「君、そんなことをいっても、アメリカが介入したら石油が上がって世界経済が滅茶苦茶になるよ」といった。石油の値段が上がるから侵略を排除できないということ自体、そもそもヘンな論理であるが、私はイラクが長駆サウジアラビアの大油田を破壊する能力がないことを見極めていたので、「米軍介入後、石油価格はしばらく高騰しますが、すぐに元に戻るので影響ありません」といっておいた。これは自分でも驚くほど正確に当たった。
バンコク帰任後は直接の情報も入らないので、淋しがりやの米国が独りで戦争するはずもないと思って、英国大使に会うごとに英機甲師団の動静だけを聞くことにした。かつてロンメル軍を破った英最強の師団「砂漠の鼠」はライン河畔にいたが、八九年のベルリンの壁崩壊以降、外に動かせる余裕が出ていた。ラインを下った師団はジブラルタルとスエズを通って紅海岸から上陸し、到着は十一月初旬、十一月半ばごろに展開を終了した。そして、十一月末にはイラクに対する最後通牒、それをソ連の仲介で半月延ばした期限切れの一月半ばに、時計のように正確に、米側の攻撃が始まった。
しかし、ここまで見えるようになっても、当たったのには偶然の要素があり、ひょっとすると何かを見落としていて大間違いをするかもしれないという危惧はいつも抱いていた。この危惧から脱するのが年来の希望だった。九二年に退官して、毎日、毎週、毎月、欠かさずに国際情勢を観察することにしてから、もうかれこれ十年になる。毎月、民間会社の調査部長クラスを相手に情勢判断を行なう会を催しているし、関西では社長、会長クラス相手に二カ月に一度ずつの会を催しているが、見通しを間違えたことはないし、まるっきり予想しなかったことが起こったこともない。平和な時代が続いたせいもあろうが、外務省の課長以来三十年以上を経て、情勢判断にどうやら自信らしいものが出てきている。そしてできれば、このノウハウを私蔵しないで、他の人に伝えたいと思うようになってきたのである。
(6)
どうして見通しが当たるようになってきたのだろうか。
もちろん、情勢を途切れなく見られるようになったことが第一である。
外交官として実務をしていると、たとえば総理の訪問などがあるとその準備で一週間ぐらいはそのこと以外の国際情勢など見られなくなってしまう。その間、中露の首脳会談などがあって、共同声明や主要演説のテキストなどを読まなければ、と思いつつ、その後の仕事に追われて見過ごしてしまうこともある。
とくに米国の公聴会の記録や要人のスピーチなど、腰を落ち着けて読まなければならないものは読み落としてしまう。それを継続して読むだけで、情勢判断の基礎がまるで違ってくる。
公聴会の記録というのも、はじめは、どこを読んでよいかさえわからないが、蓄積ができてくると、とくに注目すべきところが、おのずから見えてくる。とにかく、洩れなく継続的に読むということが基本である。
こうして実力がついてくると、あとは相乗的に情勢判断の質が向上してくる。
プラハの春の失敗で覚えたのは、マスコミや評論の九九%までが、デタントだ、デタントだと騒いでも、それは国際情勢の真の流れとは何の関係もないということである。これは私の能力の関数でもある。駆け出しでやっと情報マンの一人となったころには、やはり先輩の専門家がいうことにそれなりの理屈があると思ってしまう。いや、皆のいうことは怪しい、と思うようになるには、そうとうに実力をつけ自らの見識をもたねばならない。
とくに世論が喜ぶ情報には警戒しなければならない。戦争中は、戦争がうまくいくという見通し、平和のときは、皆が平和を愛し、平和は続くのだ、というような見通しは何度も眉に唾をつけなければならないことも学んだ。
そのうちに、湾岸戦争のころは人のいやがることを平然といえるようになっていた。九〇年の年末、故牛場大使の七周忌の宴席で、私が「一月には米軍が介入しますよ」というと、故木内信胤氏が、怖い顔をして、「それは外務省の見解か?」と詰問された。私が「外務省でほかにそういうことをいう人はいないでしょうね」というと、苦い表情ながらさすがに大人物、「また牛場の好きそうな奴がここにもいるぞ!」と破顔一笑された。大蔵省出身の澄田智氏(元日銀総裁)も同席していたから覚えていられれば証人になっていただけると思う。
(7)
しかし、そんなことよりも、見通しが当たるようになった最大の原因は、アメリカの重要性がわかってきたことにある。
それは日本の、あるいは米英以外の世界のすべての情報機関の問題でもあった。私が課長をしていた時代までは、情報といえば共産圏情報であった。ソ連、中国、北朝鮮、北ベトナムと国際共産主義運動の動静が主要関心事であった。長文、難解の共産党の文章を精読し、それを読み解くこと、それを共産党内部から洩れ伝わってくる情報と照合、精査すること、それが情報事務であった。
とくに、五六年ごろから始まった中ソ論争となると、両方とも長文難解な言説のやり取りであり、その真意が奈辺にあるかを推察するのには高度の知的訓練が必要であった。中ソ論争を手がけたというだけで、すでにいっぱしの情報マンといえた時代であった。
当時はクレムリノロジーの全盛期であり、ドイッチャー、ゾルザなどの錚々たる専門家が分析を競い合った。日本のなかでも、当時川島広守氏がいた内閣調査室、菅沼光弘氏がいた公安調査庁、中島二郎氏がいた警察庁、民間研究所では甲谷悦雄氏、土居明夫氏などと分析を競い合い教えを受けたのは、皆の主要関心事が共産圏情報であったからである。私も、着任早々読まねばならなかったのは、レーニン全集、毛沢東撰集、中ソ論争集であった。
したがって、六八年のテト攻勢のときも、分析の中心は、北ベトナムの労働党の公式文書からその戦略、戦術を読むこととその背後の中ソの対ベトナム政策であった。いまから考えると、これでベトナム戦争の帰趨がわかるわけはなかった。
「共産圏専門家などは偉そうなことをいっているが、ほんとうに難しいのはアメリカの政治を読むことだ」
これが一九七一年のニクソン・ショック時の牛場大使の言葉である。
いまとなってはこれが常識であろうが、これこそ二十世紀国際政治の盲点であった。
考えてみれば、最強国アメリカの動静を知ることが、すなわち世界の動静を知ることである。あまりよい譬えではないが、他にもっと適切なものも思い当たらないのであえて使えば、アメリカを東京とすれば、EUは大阪、日本は名古屋ぐらいであろうか。名古屋は、東京の永田町、霞が関、丸の内の動向をいつも見ていれば大局を見誤ることはない。名古屋と大阪の関係などの優先度はきわめて低い。大阪を見るにしても、大阪は大阪で東京ばかり見ているのだから、東京は大阪をどう考えているか、大阪は東京をどう見ているかを知るほうが大事である。
一九八八年に私が翌年の東欧革命を予言しえたのは、もっぱらキッシンジャー、ビアラーなどと意見交換していたからである。
東欧諸国はどこも外にいえない問題を抱え、危機感をもっていた。それを知っているソ連、フランスなどは、もしドイツが再び統一したらどんな脅威になるのか、その歯止めとして統一にどんな条件を付けるべきか悩んでいた。そして、その相談相手は結局はアメリカしかない。相談の過程ではひとにいえないことも話さなければならない。こうしてアメリカはすべての情報をもっていることになる。日本などに誰も相談しないし、内情を打ち明ける必要もないから、日本の政府、マスコミが「何人も予想しえなかった」といったのは当然である。
ベトナム戦争も、北ベトナムや中ソの動向を見るよりも、アメリカ中心に戦争の成り行きを見ていれば、六八年三月の失敗はしなくてすんだのだろうと思う。
日本だけでなく、二十世紀を通じてすべての旧大陸諸国がこの点を見逃している。
ドゴールはかつて、アメリカは天下の大事にあたって「幼稚な感情(理想主義)と複雑な国内事情(議会との関係等)を持ち込む国だ」と切り捨てている。これは多かれ少なかれ、旧世界の指導者の対米観であり、アメリカについてまともに学ぼうという姿勢がなかった。誰も彼もがアメリカについての雑感はもっていた。しかし、それを情報分析という次元にまで究めようとはしなかった。
もちろん、アメリカにも責任がある。ウィルソン主義をふりかざして既存の国際秩序を破壊してその責任も取らず、今度は孤立主義で引っ込んでしまうようなことをするから、外部の人はアメリカを理解しようという努力をあきらめ、苦笑するか冷笑するかで、その陰にある途方もない潜在的な力が見えなくなってしまっていたのである。
(8)
さて、アメリカ情報をどうするかということこそ、日本の情報機関にとってはまったく未知の分野であった。共産圏分析と異なって先人の研究があるわけではない。共産圏分析の手法を当てはめてみても何の意味ももたない。
共産圏分析は、限られた情報のなかから、隠された真実を読み取る技術である。ところがアメリカの場合は、情報は氾濫していて全部に目を通すこと自体不可能なくらいの量があり、そのなかから真の情報を抽出する作業である。共産圏の場合とまったく異なる方法論が必要となる。
一九六八年以降私がしてきたことは、この間題解決のための試行錯誤の連続だったといってよい。試行錯誤というよりも、アメリカについての情報の洪水のなかで、能力の許すかぎり読み、まだ他にも咀嚼すべき情報があるのではないかという不安感につねに取りつかれながら、何とかその都度の情勢判断を、結果として大過なくやってきたというだけのことである。
こうしながら、私が覚えてきたことを申し上げると、まず、アメリカなるものはない、ということである。
いまでもアメリカを知っていると称する人たちの口から、「アメリカは本気で台湾を守る気はない」とか「アメリカは日本が強大になることを内心恐れている」というような発言が聞かれる。これを聞いただけで、その人はアメリカを知らないなと思う。
そういうことをいっているアメリカ人はたしかにいるであろう。しかし、そうでない考え方の人もたくさんいる。議会、行政府、マスコミ、世論、それぞれ違うし、それぞれのなかでも多種多様の意思がある。それが互いのチェック・アンド・バランスを通じて、やがて政府の政策に反映されてくるのであるが、それがまたいつ変わるかわからない。「アメリカ」の意思なるものなどはどこにもない。ただ、その多種多様な流れをつねに追って、その帰趨を見極めるしかない。よく、「アメリカの情報だけに頼ると情報操作される恐れがある」という人がいるが、これも「アメリカなるもの」があって、裏で日本を操ろうとしているという誤解からくる。アメリカ発の情報源はけっして一つではないし百人百様の解釈を通して伝わってくる。
とすると、どうやってその流れを追うかということである。最終的には、政府の立場として公表された文書、すなわち大統領、国務長官の演説、あるいは国防報告等が重要である。「お経」だけ連ねている日本の施政方針演説などに慣れていると、ついその重要性を見落としがちであるが、そうした公式文書を精読して眼光紙背に徹することである。そして、前段階として、議会における対日政策、対極東政策に関する公聴会の記録を精読することである。
その前の段階となると、『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』の社説、そこに掲載された各種論説、『フォーリン・アフェアーズ』等の各種論文を読んで、専門家、知識層のあいだの考え方の流れを把握することが必要である。
これと並行して大事なのは、こうして得た所見をぶつけてみて反応を知る対話の相手を米国の要人、識者のあいだにもつことである。さらに欲をいえば、大統領の演説に関与した人々から、どこが演説のミソかを教えてもらうことである。キッシンジャーの極秘訪中など、数年間会わなかったホールドリッジがあそこまで教えてくれたのだから、もし旧交を温めて数カ月ののちだったならば、もっとヒントをくれたであろう。
これは、私の実力の関数でもある。私の見識が成長すればするほど、相手の応答も中身のあるものになってくる。そして、私についてのアメリカの有識者の評価が高くなればなるほど、真の実力者にも会えるし、話の内容も高度になってくる。米国に対する情勢判断の能力は分析者の対外的評価と比例するといっても過言でない。
(9)
その後、私は外務本省を離れ、大使としてサウジアラビアとタイに在勤し、九二年以来博報堂の顧問となり、研究所を主宰した。
ここで私は年来の夢を一つ達成することができた。それは、さきに述べたように、中断されることなく国際情勢を追うことである。
私は外務省在勤時代、例外的に恵まれた条件で国際情勢の流れを追うことができた。情報分析と関係のない実務の案件処理に追われるポストにはほとんど就かなかった。それでも、サウジアラビアとタイにいた八年間は、大きなニュースは新聞で追うことができたが、情勢の流れの細かいひだまでは知る立場にいなかった。いまでもたとえば前のブッシュ時代のベーカー国務長官はどういう人だったか、と訊かれると、私の知識はまったくブランクである。重要な事件を新聞で追っているだけではそんなことまでわかりようもない。
これはすべての外交官にとっての悩みである。本省では次官と外務審議官、国際情報局長、在外では駐米大使ぐらいは国際情勢を全部見ている。しかし、それは任期のあいだだけである。何か聞かれても「俺がいたときは……」としかいえない。特別に恵まれた人で、外務審議官、次官、駐米大使と中枢ポストを歴任しても、その間七、八年のことしか知らない。
朝鮮問題でいえば、過去七、八年を知っている人は、九四年当時の危機一髪の時期から、九八年のペリー・プロセス、二〇〇〇年の南北首脳会談に至る道程も、雰囲気も知っている。しかし、その前の八八年以降の盧泰愚の時代、九一年の冷戦終了時の南北同時国連加盟の時代は知らない。もっと欲をいえば、朴正熙時代を垣間見ていないと、現在の韓国の理解には欠けるものがある。
私はこの十年間だけは休まずに見てきた。この十年といえば、冷戦が終わって初めの十年間である。その前の八年間の大使時代のいわば情報の隙間だらけのブランクは、いまでも時に感じることはあるが、それもこの十年間に必要に迫られてその時代に遡って調べなければならなかったことによって、少しずつブランクが埋められてきた。これが埋められれば、過去二十数年連続して見てきたことになる。
あと何年続けられるかわからないが、情勢判断を志す者として、まず、理想の環境をつくれたといってよい。
(10)
こうして私なりに築き上げてきたノウハウを、私独りがもっていないで、組織として遺したいというのが私の希望である。
情報の組織論というと、誰でも、007のようなスパイ組織、NSAのような電子情報組織、そしてその情報源となるスパイ衛星などを考える。しかし、私がここで考えているのは、そうしたすべての組織のピラミッドの頂点、つまり、CIAの幹部が、いかに大統領をして国際情勢判断を誤らしめないか、という点に集約される。
この組織に工夫がないと、スパイ衛星や電子情報などの情報をいかに積み上げても、最終判断が、偏見や希望的観測、個人のこだわりなどで曲がってしまっては、それまでの努力が無意味になってしまう。
大局的判断を誤らないためにはどういう情報システムがもっとも必要か、という問題点を絞るために、もう一度昭和史に遡って、もしあのときに正確な情勢判断のもとに政策を行なっていたならば、というケースを洗って考え直してみたいと思う。
(11)
昭和史を遡って、もし正しい情報を指導部がもっていたならば、と思う例は少なくない。
終戦の年の四月、鈴木貫太郎は組閣にあたって東郷茂徳を外相にしようとした。東郷 は「戦争は今後一年間続けることも不可能と判断するが、総理があと二、三年もつといっている以上は一致協力は困難だ」と固辞し、鈴木は「戦争の見通しはあなたの考えどおりで結構だ」と言質を与えている。これがやがてポツダム宣言受諾につながるのである。
外交と内政との最大の違いは、外交には相手があることである。内政ならば大概のことは日本の国家権力で左右できるが、外交の場合、日本の政策や願望がどうであっても、物事は客観的情報の幅のなかでしか動かない。ここで情勢判断の重要性が出てくるのである。
東郷の見通しは常識的である。フィリピンが敵に押さえられて、南方から送ってくる油槽船などが全部沈められる状況で戦争が続けられるはずもない。もしあのころ、日本政府内に情報分析について誰も無視しえないような権威のある部局があって、客観的、意識的な情勢判断、つまり日本はどうやっても勝てませんよ、と毎日、毎週いいつづけられるような組織となっていれば、原爆とソ連の参戦を待たずに降伏ができたかもしれない。
その後も、日本はソ連を介した和平工作に最後の望みをかけるが、それはまったく不毛な努力で、終戦の時期を遅らせる効果しかなかった。
もっとも、ソ連参戦のヤルタ密約は、トルーマンさえ、ローズベルトの死後、大統領を引き継いだときに金庫のなかから発見して愕然としたという高度の機密であり、それを知らなかったといって責めるにはあたらない。
ただヤルタ会談のあとスウェーデン大使館から、小野寺武官のもっている情報筋からの「ソ連はドイツの降伏より三カ月を準備期間として、対日参戦する」というきわめて正確な情報が東京に打電されていたが、東京ではまったく無視されたという。
これも、もし対ソ外交に望みを託するのならば、それに関する情報は細大洩らさず整理、検討すべきなのに、それを行なうような情報組織になっていなかったということである。
その前から、小野寺武官は、ヒットラーが英本土上陸をあきらめて対ソ戦を準備しているという情報を送りつづけ、四一年四月の松岡外相訪欧のときの会議でそれを主張しているが、これも無視されている。
当時は、松岡外相も軍部も、ソ連を日独側に引き込んで世界戦略を構築するつもりであった。それならば、それに反する情報を可能なかぎり集めて分析すべきなのに、逆に、自分の考えや都合のよい情報だけを尊重するという基本的なミスを犯している。組織論からいえば、複数情報を尊重するシステムがなかったのである。
開戦時において私が痛恨に思うのは、アメリカの国内情勢の分析がなかったこと、あるいはあったにしてもそれが指導部の判断にまったく影響を与えていないことである。
当時ローズベルトは、あの手この手で世論を誘導してアメリカを戦争に参加させようとしていたが、議会の圧倒的多数はそれに反対の孤立主義であった。孤立主義の指導者ハミルトン・フィッシュは、真珠湾攻撃後率先してローズベルトの戦争努力を支持したが、のちのちハル・ノートの存在を知って、この「恥ずべき最後通牒」を知らなかったことを後悔している。
アメリカの戦いは、第一次世界大戦でもベトナム戦争でも、戦争の相手側と国内世論の両方に対する二正面作戦である。真珠湾奇襲などをして、二正面を一正面にまとめさせる愚策などに訴えず、ハル・ノートを公表して、時間期限つきで石油禁輸の解除を要求する最後通牒で戦争を始めるアイデアがどうして下から出てこなかったのであろう。そうしていれば、アメリカが硫黄島で二万余の海兵隊員を失ったときに、日本本土が廃墟と化する前に停戦となったことは想像に難くない。つまり、世界最強力な国であるアメリカの分析があまりにも雑駁だったということである。
もっとも、このアメリカ情報の無視は、すでに述べたように、世界中の政治家、情勢分析家の長年の通弊であり、当時の日本人を責めるより、この教訓を今後に活かすことを考えるほうが重要である。
シナ事変の始まりである蘆溝橋事件の前に、中国全土の抗日意識が燃え上がり、機会あれば日本を戦争に巻き込もうという雰囲気だったことは、ほんの一部の専門家以外は気付いていない。
それがわかっていれば、まず外交的にすべきことは、西安事件後、共産党のとりことなっている蒋介石を助けて、もう一度反共戦線に戻すよう努力することであったろう。そして、事変勃発後は、参謀本部の堀場戦略どおり、事変不拡大をあくまで貫くか、大兵力集中の作戦を行なうかの二者択一となったであろう。もし出兵したとしても、「膺懲々々」といって兵力の逐次投入をすることにはならず、蒋介石軍に実力を見せつけたあとは早期に事態の収拾の方向に傾いたであろう。
(12)
こういう問題意識をもって、将来あるべき情報組織をイメージすると次のような基本方針が浮かんでくる。
第一に、一次情報収集機能の強化はこの提案のなかに入ってこない。一次情報の収集機能を軽視するつもりはない。日本には、すでに、外務省、防衛庁、公安調査庁、内閣調査室がそれぞれに情報収集機能をもち、近くスパイ衛星ももつということである。この機能を強化する必要を認めるには吝かでないが、それには毎年毎年予算と機構を積み上げていくしかない。いまさら中野学校を復活させることも不可能であり、地道な努力の継続しかない。
基本的には既存の組織から一次情報を入手すればよい。そのためにも、すべての一次情報が中枢に集まるような組織が必要であり、また、最高情報担当者は、政府内各情報部局から常時情報の提供を受けられるような、信頼され、尊敬される人物でなければならない。
ただ私は、従来、情報といえばすぐに一次情報収集力強化ばかりを論じる傾向には疑念をもっている。
一つは、情報が総理官邸に伝わるのが遅かったとか、事件の勃発を、外務省がまずテレビで知ったのは醜態だというような情報感覚である。
一次情報はどこから来てもよい。もちろんテレビ、ラジオからでよい。火事の情報などは現場付近で寝ていた浮浪者が真っ先に知るが、それでよい。すべてはその後の判断と処置ぶりである。
おそらくこういう情報感覚は、ニュースのスクープ合戦で、他社が夕刊なのに自分だけがその前の朝刊に間に合えば勲章をもらえる新聞記者感覚をそのまま情報事務に当てはめてあげつらっているだけなのであろう。私が右に挙げたような大局的な情勢判断とは無縁のことである。情報が半日遅れようと三日遅れようと、正確な情勢判断を行なうほうがはるかに重要である。
こういう低次元の競争感覚はジャーナリズムだけでなく、情報機関部内にもある。上から褒められそうなよい情報を拾うと、他の情報機関に知らせないで、ラグビーのボールを運ぶように独りで官邸に届けたがる。自分の手柄にしたいのである。
アメリカでは、CIA、NSA、INR、DIA、FBIなどはクローズド・サーキットTVをもっていて、一次情報は同時に全部伝達されるようになっているという。つまり、一次情報は即時共有、その分析と判断を複数情報として競い合うシステムである。これも長年の経験で達成した智恵であろう。
また私の経験では、一次情報を入手するための最大の手段は米国との友好信頼関係を強化することである。米国が世界にもっている情報量は日本の数十倍であろう。その一部分を分けてもらうだけで日本が集めうる情報より多い。日英同盟が廃棄されたあとの日本の情報の質の低下を思い起こすだけでも、その間の事情はわかろう。
米国が情報を一部分隠すことはあろう。機密情報の情報源を隠す必要もありうるし、まれに、ものによっては日本には教えないほうがよい、と先方が思うこともあろう。しかし、彼らがその一次情報のうえに立って下す大局的な判断では嘘はつけない。逆に、先方の大局的判断のなかに、隠された一次情報があることを推定することも、熟練してくると可能である。これもすべてアングロ・サクソンの扱い方の一部である。
アメリカから情報をもらうには反対給付として日本独自の情報が必要だというのは正しい。日本の各種情報機関の業務の大きな部分は、アメリカとの情報交換に割かれている。ただ、それと同時、あるいはそれ以上に、アメリカは日本の情報交換能力が限られていることは、もともと百も承知であり、重要なのはアメリカ側が日本側の接触先について、この人間は情報についてすぐれた認識をもち、信頼でき、この人間と接触することが有意義であると思えるような人材を育てることである。スパイ防止法がない条件の下では人間の信頼関係がますます重要である。
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もう一つの基本的考え方は、組織の中心となる人間は、役所的な人事でなく、個人の見識で選ぶべきだということである。
これも次元の低い話であるが、情報組織については従来権限争いがある。内閣調査室長は警察出身、次長は外務省出身と決まっているのも権限争いの妥協の産物である。私は防衛庁ですべての情報事務の統率を命じられた。権限争いなど度外視していた当時の丸山昴次官(旧内務省高文出身の警察官僚)の高潔な人事だったが、当時でも警察部内から強い反発があったと聞いている。最近のせせこましい権限争いの世の中ではとうてい考えられない人事である。
すでに述べたように、当時は、情報といえば共産圏または国際共産主義情報だったので、外務、警察が競合するかたちだった。いまはおそらく違うのであろうが、私は、そんなことはどちらでもよいと思う。
事務局は、内閣調査室でも、外務省の国際情報局でも、あるいは国際問題研究所でも何でもよい。しょせんは事務局にすぎないからである。要はそれまでの経験も乏しく、たった二年の任期しかその職に務めない官僚が、世界の情勢を分析し、これを内閣に報告して国家の政策に資するという、本来的に不可能なシステムでさえなくなれば、それでよいのである。
私の経験からいえば、責任者は十年間は継続して情勢判断に専念してほしい。その間、毎日、毎週、毎月の情勢の動きを間断なくフォローし、そしてその間にその前の十年間、二十年間、百年間に遡って過去の経緯にも通暁してほしい。そして、また、その間に古今東西の歴史をひもといてほしい。そうやって、歴史の大きな流れを知り、歴史の流れのなかの現在の地位をつねに把握していてほしいのである。
年齢は六十歳以上がよい。総合的な判断力は年と経験とともに進む。私自身、外務省、防衛庁には申し訳ないが、現役中よりもいまのほうが、はるかによく物事が見える。最近は皆長生きをするが、人間というものは年とともに体力は衰えるが、総合判断能力は、耄碌してくるまで伸びつづけるように思う。
組織の一つの見本となるのはアメリカのNIO(国家情報官)制度である。その後変遷はあったかもしれないが、私の知っているころでは、東アジア、中近東、ソ連圏などを担当する地域専門家数人と、軍事、経済等機能別の専門家二、三人が常時大統領の諮問に答えられるようになっていた。私は日本にも国家情報官を設けることを提案したい。
ただ、日本にはアメリカとは違う事情があると思う。
いちばん違うのは、さきに説明した東京と名古屋の違いである。日本のNIOは、その専門がソ連であろうが、中国であろうが、軍事であろうが、経済であろうが、同時にアメリカの専門家でもなければならない。そうでないと、ベトナム戦争の見通しを、共産圏分析と軍事力の比較だけで論じてしまった誤りを繰り返すことになってしまう。
分野別の専門は、各NIOの経歴によっておのずから出てこようが、はじめから専門を決める必要はないと思う。専門をつくると、外務省の各地域局や、各国内官庁の事務と重複し、屋上屋を重ねることになってしまう。
また、私の経験では、経済とか軍事のような専門分野では、世界の大きな流れを見るときにぜひ考えねばならないようなケースは年に二、三回あるかなしかである。その他は、各省庁、各研究所、各企業調査部等が四六時中フォローしているのに従来どおり任せればよく、また、それ以上のことをするのは難しい。
実際的なのは、経済、軍事の最高級の専門家とNIOが集まって会食して意見交換するような機会を月に一度設けて、もっとも大局的で重要な流れだけを把握するように努めることであろう。
またNIOは、アメリカの有識者とつねに交流できる実力をもってほしい。十年の任期の初めの二、三年でその実力をつけてくれてもよいが、その前から、各種セミナー、シンポジウムに日本の顔として出席しているような人から適格者が出れば、そのほうが効率がよい。
本人の了承も得ずに名前を挙げるのは失礼ではあるが、イメージをはっきりさせるために、あえて例示させていただきたい。
東大の田中明彦教授は、雑誌で、世界主要紙の論説を何年も欠かさず紹介しておられる。これはそうとうの蓄積と思う。もともと田中氏は、時事関係にも詳しく、また近代史の知識も豊富であるから、将来定年後にでも引き受けていただければ即戦力である。
京大の中西輝政教授は、その『大英帝国衰亡史』を拝見していると、これであと、時事の問題に専念していただけるならば適任者と思う。同じ意味で、塩野七生氏などは、あれだけローマの興亡の歴史に精通しておられるのだから、いまからアメリカの現代の公文書を精読する面倒な作業に従事する気がおありならば適任者と思う。つまり、治乱興亡の理を知っているうえに、毎日の情報を執拗に追うという緊張感を維持できる人というのが大事な条件である。逆に古森義久氏などは、時事問題の見方はすでにプロ中のプロであるから、歴史に遡って大局を見ようというお気持ちがあれば、すぐにでも役に立つ方だと思う。外務官僚では、駐韓公使、アジア局長、総合政策局長、イスラエル大使、次官を歴任した川島裕氏などは、その持ち前の分析力、教養からいっても、アメリカをよく知っている経歴からいっても即戦力であろう。
世代の違いで中国古典世界の治乱興亡の歴史に詳しいかつての安岡正篤のような人が思い当たらないのは淋しいが、一級人物であれば、在任中に『史記』『十八史略』などを精読していただければそれでよいと思う。
外務省には、他にも潜在的な人材は多いのであろうが、私が直接知っている人だけをいわせてもらえば、私の分析課長時代首席事務官を相次いで務めてくれた伊藤憲一氏、H・O前タイ大使、私の局長時代の分析課長だったS・Sベルギー大使、T・Mイラン大使は、私と同じような情報意識をもってくれている人々である。
また、防衛庁参事官、情報調査局長の両方で私の後任を務めてくれた新井弘一元大使は、かつては、資料課の首席として伊藤憲一氏の先任だったこともあり、私と同じ情報意識をもっている人である。
秘密の保持はたいした問題ではないと思う。時として参考に供する機微に触れる一次情報を、その情報だけについて保秘義務を課すればよい。
もともとNIOの仕事は、そんな情報をご注進、ご注進といって内閣にもって行くことではない。そんなことは事務局の官僚の仕事である。いままでどおりやればよい。またNIOはすでにできあがった人であって、「俺はこんなことを知っている」と外部に誇ったりすることはありえないし、また、そういう人物だけを任命しなければいけない。
NIOの仕事は、すべての情報を咀嚼したうえで大局的な判断を下すことにある。その基礎の一つに秘密情報があっても、そこから出てくる大局的判断は秘でも何でもない。むしろ秘にしないほうがよい。これを新聞、雑誌等に個人名で公表することによって、各方面の判断を仰ぎ、さらに判断に磨きをかけ情報の精度を上げることができる。また、すぐれた情勢判断はすべて国民に知らしめ、国民自体が正しい情勢判断に慣れていることが重要である。
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とりあえずいま考えているのは、三、四名をまず十年の任期で任命して、その五年後にその後任兼補助を十年の任期で任命する。退職後は耄碌するまで顧問をしてもらう。
予算は、一人の人件費がオーバーヘッド(秘書、部屋代、旅費、交際費)を含めて年間三千万円として、当初一億二千万円、五年後には二億四千万円、顧問費を入れても年間三億円ぐらいである。外務省機密費のなかの冗費を削減して、本来の目的である情報に使うということならば十分可能であろう。これだけのことで、CIA等のピラミッドの頂点に相応する情報組織をつくることができる。
オーバーヘッドのなかで旅費は、私の経験では、大部分は会議開催側の負担による諸会議出席なのであまりかからない。自分の経費の出張が年に二回できれば十分である。もっとも大事なのは設宴費である。
NIOは、たとえば中国問題とかロシア問題について、それぞれ月に一度ずつの勉強会を一つ、二つもつ経費が必要である。
飲みかつ食べながら談論風発する。これは東洋だけの伝統ではない。シンポジウムというのは元来ギリシア語で饗宴の意味である。一人単価千円の弁当で議論が弾むはずはない。贅沢の必要はないが、中華料理の卓を囲んで一人一万円程度使えれば、徹宵、心ゆくまで議論が弾むから、結局そのほうが費用対効果が大きい。十人十カ月、二グループで年間二百万円ですむ話である。
そもそも情報活動には飲食が不可欠である。そのほかにも要人との会食の費用も要る。もっと低い次元の情報工作でも情報提供者に金を受け取らせるようにする前には、飲食や交際を深めるために多額の経費を必要とするのは普通のことである。飲食の経費に上限を設けるというケチな考えは情報活動には当てはまらない。もし上限を設ける必要があれば、それを超える部分こそ、まさに外交機密費がもっとも有効に使用されるべき分野である。
濫用を抑えるのは良識しかないが、その意味でも、NIOには一級の人物が必要である。
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要は、日常の雑務に煩わされないで常時欠かさず、部下に任せないで自分で資料を読んで考え、時流に超然として流行の議論に迎合することなく、また、政策論に調子を合わせることなく、あくまでも客観的判断と分析を貫けるような組織をつくることである。そして、その組織は内外において尊敬され、外国の最高情報機関と高度の知的交流ができねばならない。
そういう組織は歴史にもあまり前例はないであろう。漢の張良、陳平とか、蜀の諸葛亮とか、個人はいたかもしれないが、組織としては存在しなかったと思う。
夢想といわれるかもしれない。しかし、過去にできなかったことが、もし現代にできるとすれば、その一つは人間の寿命が延びたことである。諸葛亮は五十三歳で没した。同じ年では諸葛亮にはとうてい及ばないとしても、それから二十年情勢判断を習うことによって、そしてまたそういう人が三人集まることによって、同じくらい治乱興亡の理を究めるチャンスはあるのではないかと思う。あるいはそこまでいかなくても、少なくとも昭和前期に日本を破滅に導いたような情勢判断の誤りを繰り返さないという努力をすることはできるし、それがもっとも必要なことだと思う。
アメリカは、第二次大戦の教訓から学んで情報の組織・システムを革命的に改善して情報大国となっている。情報戦に敗れて破滅した日本こそ、情報体制を立て直すべきであったが、戦後は経済再建に手一杯で、防衛とともに情報は戦後の再建がもっとも遅れた部門となり、米国のCIAやNSAと日本の情報機関とのあいだの格差は予算規模でおそらく百倍以上であろう。
二十一世紀を迎えて、日本が国際社会で生き延びていくためには、遅ればせながら、情報体制の整備が不可欠であるが、いまさら百倍の格差を埋めることは不可能であろう。しかし、ほとんど戦前のままで根本的に改良されていない日本の情報組織を、少なくともそのトップの部分だけは情報先進国のアメリカにならって改善し、それに日本独自の条件も考え、また東洋古典世界的発想を一部取り入れるという、米英といえども考え及ばなかった新しいシステムを導入することによって、数億円程度の予算によって、この格差の相当部分を埋めることができる。
幸い吉田総理以来、限られた範囲ではあるが外交機密費の必要なことは認められている。この提案は、この限られた予算のその一部を本来の目的に活用するだけで実現可能なものである。
英語版 (Japan Echo12月号)