地政学的考察
●21世紀の日中関係(ポスト冷戦時代の戦略がshaping & hedging戦略であること)
●21世紀の日中関係の決定的要因(セカンドトラックの安全保障対話が鍵であること)
●急がば回れの戦略(日露関係の促進が、ひいては日中関係を良くすること)
和解に関する考察
●独仏和解からわれわれは何を学べるか(1946-1950に独仏指導者はどう振る舞ったか)
●紛争解決の手法(スイスのCauxにおける独仏対話の技術的側面)
●日韓対話のサクセス・ストーリー(岡崎研究所・Yoido Society主催の日韓対話の事例研究)
●日中の精神的きずな(過去半世紀の日中対話の何が間違っていたのか。将来の希望は?)
参考資料
「韓国 日米との防衛協力模索/経済危機で進む歩み寄り/日本の集団的自衛権が壁」(岡崎研究所・Yoido Society(韓国)主催の日韓対話の事例研究に関する新聞記事。98年4月)
日本と中国は21世紀に共同して文化的創造に取り組むでのであろうか。本論文は 、まず、日中が文化的創造を共同で行なう可能性を論ずる。次に、文化的創造の前提となる日中の共同繁栄の可能性について論じる。最後に、21世紀において、日中が共同して文化的創造を行なう場合に必要な条件について論じる。なお、本稿は、文化の精神的側面に注目するために、経済慣習を文化の主要な要素であるとは認めない。 およそものごとの「部分」を調べ微細に検討することが専門的論文の仕事であるとすれば、この論文は専門的論文ではない。筆者は「全体」を捕えようと構想しており 、「全体」を考える仕事が哲学の仕事であるとすれば、以下は哲学的論文である。
過去における日中の共同文化的創造経験
日本と中国は、過去において、共同して文化的創造をおこなった経験がない。 過去において、隋・唐の大陸統一は、生存のための統一と独自文化の発展を日本に促したが、これは一方的な関係であった。13世紀の蒙古襲来は、日本における武家 支配を確定的なものとし、ここにおいて日本に一層独自な文化の発展を促したが、これも、大陸から日本に対する一方的な刺激であった。19世紀には、西洋文明を取り入れた日本が、中国に対する文化的創造の基地となった。魯迅、戴伝賢、陶晶孫、吾禄貞など10万人の清国人留学生は中国に大きな影響を与えたが、相互的な文化創造のプロセスには至らなかった。1945年に日本は戦争に敗れたが、それ以降の50年間、日本にはめぼしい文化的創造が起こらなかった。同様に、中国大陸においても1950年以降 、文化大革命の惨禍もあり、めぼしい文化的創造活動は見られずに、2000年を迎えよ うとしている。
文化的創造はどのような条件下で行われるか 世界の歴史から了解されることは、3世代百年にわたる平和と繁栄の持続が、文化 的創造の重要な前提になっていることである。日本の元禄文化は、百年にわたる平和と繁栄の果実である。1945年の敗戦後の日本は、世界史的に取り上げるに足る文化創 造活動には至っていない。それは、経済的復興を見たのが1965年以降であり、わずかに30年の繁栄の歴史がある限りだからである。 中国においては、古くは漢の武帝時代の繁栄、唐の玄宗帝時代の繁栄、宋の神宗帝時代の繁栄、明の孝宗帝時代の繁栄、清の乾隆帝時代の繁栄が知られるが、いずれも国家統一後百年の平和と経済的繁栄を経て、文化的創造が世界史的高みに到達したものであることは注目すべきである。現在の中国では、鉄道駅は外国人用の寝台券を留保し、開発区の人気の土地は外国人にだけ売られている。しかし、経済がもうすこしだけ発展すれば、このような習慣は過去の遺物となり、「国を出て初めて何が愛国なのか理解される」という現状も改まるだろう。国の宝である留学生も帰国し、21世紀 の到来とともに文化的発展は隆々たるものになるだろう。
将来の日中文化共同創造の方向性
現在、日本と中国はともに長期にわたる可能性を持つ平和と繁栄を享受している。 日本は53年間戦争をしておらず、半世紀にわたる経済的繁栄を享受しており、今後 、大きな文化的創造の可能性を秘めた潜在的文化大国である。一方、中国は、建国以来、5年に1度という頻度でさかんに戦争を行ったが、中越戦争以降は、20年間戦争をやめてしまった。経済的な繁栄も20年間以上持続している。 とくに現在中国で起こっている「国学」ブームが注目される。「国学」は中国が近 代民族国家を形成した19世紀末から20世紀初頭におこり、五四運動で否定された。現代の学者は、五四運動当時の未成熟な学者と違い、ひとつのものを2つに分け、どれ が継承すべきで、どれが捨てられるべきかを研究できるので、「国学」のなかに偉大 な中国文化のアイデンティティそのものや、中国が今後発展する精神力を見つけるかも知れない。その「国学」の有力なルーツが清国留学生にあることを考えると、将来 の日中文化の共同創造への道は極めて興味深い。 21世紀に世界規模で恒久的な平和と繁栄の時代が到来し、日中がともに平和と繁栄 の享受を継続するならば、21世紀半ばまでに両国における独自の文化的創造は盛んとなり、日中間の創造的文化の交流は、歴史上まったく新しい段階をむかえるばかりか 、過去における両国の文化的実力からみて、世界史的な意義をもつものとなろう。
21世紀に日中関係が「対立と緊張の関係」に陥った場合の文化創造
次に、21世紀において、日中関係が「対立と緊張の関係」に陥る場合に文化的創造 分野で日中間の相互関係がどのようになるか考察する。 日本においては、過去に中国が脅威となるたびに、それが引き金となり、自らのidentityが追及され、nationalismが高まったことから、将来日中が「対立関係」に至った場合には、日本文化に新たな創造の時代がもたらされると考えるべきであろう。 6世紀の隋・唐帝国の出現と、13世紀の蒙古襲来が、日本の国家的統一と独自文化の 直接的原因であったことは先に書いた。21世紀の日中対立こそは、これに匹敵する爆 発的な国風文化を生みだす原動力となろう。21世紀の日本は海洋国家であり世界の一 部であるから、日本で営まれる文化的創造は、国風文化の深化と他国との共同文化創造の推進を並行する。日本と、中国が対外戦略上重点地域と規定する地域の敏感な諸国(すなわち、蒙、韓、露、濠など)との共同文化創造の活性化がすすむだろう。そ の結果、日本で営まれる文化的創造は世界に波及する。これは、日本が世界に対して 大々的に行う初めての文化的貢献となろう。 中国においても、日本を意識したnationalismが高まるであろう。中国人が自らのi dentityを追及し、中国文化も新たな創造の時代をむかえることになろう。しかしながら、日中の対立関係は、次項に述べるように、冷戦構造の復活を前提とする。その 結果、中国における文化的創造活動は世界から孤立した中国(ロシアを含む場合には 、中露陣営)内で行われる。
21世紀の日中関係
20世紀末から21世紀初頭(とりわけ1990年から2020年まで)の世界を、後世の歴史家が「冷戦と新冷戦の戦間期」と呼ぶ確率が50%あると筆者は思う。また、50%の確 率で、この時期は「偉大な恒久的平和が確立された時代」と呼ばれることであろう。 中国は21世紀前半における世界最大のQuestion Markであり、中国の出方が、今後の 世界がどちらにころぶかを決定すると多くの西側の安全保障専門家は見ている。 安全保障には、地政学上の現実、軍事力、同盟関係などの要素が含まれる。21世紀 前半の世界秩序の構築では、安全保障分野のrealityが世界秩序を規定する下部構造を形成する。文化分野がそれ自身で世界秩序を規定することはない。したがって、安 全保障分野について、しばらく論じることにする。
冷戦後の戦略環境の特質は「脅威→抑止・対処戦略」が表面に出ていた構造から「 不透明・不確実→秩序形成とリスクヘッジ戦略」が展開する新構造への転換にある。 もちろん、世界の一部(朝鮮半島や中東)には依然として「脅威」が残っているが 、全般的には世界は「不透明・不確実」である。このような世界では、新秩序を形成 するために「秩序形成戦略」が用いられるが、突発的不測事態に備えた「リスクヘッ ジ戦略」も併用される。また、もしも新秩序形成が不成功に終わり、持続的脅威が出 現した場合には、伝統的な「抑止・対処戦略」が使用されるであろう。冷戦後の世界 における基本的な戦略は以上の3本柱で構成されるが、そのなかで「秩序形成戦略」 が主柱である。
われわれの具体的な課題は、冷戦後の世界秩序形成にあたり、中国をどう扱うかで ある。アジア・太平洋の新秩序形成は日米中露4ヵ国の協力なしに成立しないことは 言うまでもない。このうち、一番不確実なことは、中国の協力を得ることである。これは、中国が他の3ヵ国と政治的価値(自由主義)を共有しないことに根本的理由がある。
現在、中国や新生ロシアは、いかなる意味でも伝統的な「脅威」とは見られていない。中国や新生ロシアは、将来、脅威となるかどうか全くわからない不確実・不透明 な存在である。
日米は、このような行き先不透明な国や地域を、冷戦で勝利した「自由主義」を政治的価値とする「西側秩序」新秩序の中に引き込もうと努力している。その努力は、 中国に対しては、対話を通じて「ともかくも安定をもとめる」戦術的な関与政策(秩 序形成戦略の初期段階)により行なわれ、政治的価値の共有は現段階では問われていない。これは畢竟「かりそめの安定」であり、冷戦時代の米ソの「平和共存」に似た 脆弱な安定しかもたらしていない。しかし、中長期的には政治的価値を問う秩序形成 の段階が来ることは必定であり、このときこそが、冷戦後の秩序安定の正念場となる 。その時期は、2020年以降に到来するであろう。
新生ロシアに対しては、ロシアに自由民主主義が現われたことを契機に、米国は、 一歩進めて、政治的価値の共有をともなう積極的な「秩序形成戦略」を展開している 。日本の対露取組は米国に較べるとスタートでは、はるかに遅れたものの、クラスノヤルスク首脳会談以来急速に追いつきつつある。米露関係が蜜月期を過ぎてギクシャ クしたのに対し、日本は過去半世紀に全く見せなかった積極的対露外交を展開している。その理由は、米国の対露関係が、欧州と太平洋の2正面で構成されるのに対し、 日本の対露関係が極東ロシア正面だけであり、しかも日本側が圧倒的に優位なために 自由度が高いからであろう。
21世紀における日中関係の決定的要因
21世紀における日中関係の決定的要因は、地政学上の現実、軍事力、同盟関係など の安全保障分野が秩序を規定する下部構造にある。文化的要素が決定的要因であった ことなど歴史上一度もないのに、日本では安全保障分野の専門家の発言が大きく取り上げられないために、日本では政治指導者や文化人にも錯覚する者が多い。安全保障 分野については小学生以下の知識しか持たないのに、「平和」「日中友好」という題 目さえとなえれば平和と日中友好が実現するとの信念だけは頑なである。しかし、一 般国民が極めて賢明で「文化人」の言行を鵜呑みにしないことは過去半世紀の選挙結 果を研究すれば明らかであり、日本国民の闘志を見誤ってはならない。
さて、中国があまりにも長期にわたり官製ニュースメディアを用いた対外宣伝を続 けて来たために、国際社会は中国の主張を額面通りに受け取らなくなってしまった。 国際社会が信用するのは民間の自由な個人の発言だからである。現在に至るも中国の 英文の国際関係雑誌は学術性が高くないために国際的に出版されることが困難である。 しかし、最近、中国が民間の宣伝を強化し、国際会議などで協力を強調し誤解を解 くことに熱心であることは評価できる。過去には中国の国際会議参加者は、米国の覇 権主義をやみくもに批判するばかりであったが、最近は具体的に批判するようになっ た。とくに中国はセカンドトラック対話に熱心である。日中対話はもちろん、日米韓中、NEACD、CSCAPなどの多国間対話で相当な蓄積を行っている。国際社会が毎日新た に発展し変化するなかで、中国の秩序形成への積極的態度は歓迎すべきである。なぜなら、セカンドトラック対話は、官僚や軍人を含む参加者が比較的自由に議論できる場であり、創造的なアイディアは自由な討議から生まれ易いからだ。官僚にとっても セカンドトラック対話は生煮えの施策を実験的に提案する場である。だが、中国にと って残念なことは、創造的アイディアがオフィシャルなベースに乗るはずのファーストトラック(政府対政府)対話の仕組が不十分なことである。また、政権に近い中国人研究者は、セカンドトラック対話で斬新なアイディアを表明するが、その数が限ら れている。大半の研究者は政権から遠いために相当な安全率をかけて発言するので、 西側の参加者をいたく失望させるのである。その結果、「中国の参加者は体を輪の中に入れるが、思惑は外に置き去りである」との相変わらずの印象が払拭されずにいることは残念なことである。このあたりに、われわれと中国との対話の限界を見るので ある。
急がば回れの戦略
本音の議論の不在が今後も続くなら、日本は、中国に対する直接的アプローチを継 続するよりも、秩序を共有する可能性が高いロシアとの協力関係を進めた方がよいと考えるだろう。それによると、まず日米露の輪をつくり、中国が「輪の外」にとどまることができなくなるように導くことが上策とされるであろう。中国が、強いて「輪の外」にとどまろうとするならば、中国は3強国に対抗する覚悟をせねばならない。 中国は実際に3強国に対抗しようとするかもしれない。しかし、結果はかつての日本や80年代のソ連の二の舞になるだけである。 外交工作が国益を守る任務を持つべきことを最初に明らかにしたのは周恩来(1949 年11月)であるが、80年代には対外戦略研究は過熱したブームとなり、めくるめき数の戦略構想が現われた。しかし、いまは新たな国際秩序構築の時代が到来したのであり、全面的な見直しが必要である。過去の構想は捨て、何が国家利益かをきちんと分 析し、早期に系統立った対外戦略を調整し合理的な方向に定型化する努力が必要だ。
さて、日米露の協力を進めることが、結果として日中関係を改善する大道である以 上、日露協力を改善することが日本にとっては急務と言える。そのためには、日米露の戦略的協力まで意識する必要は当面ない。これは、価値の共有の確認をさほど必要 とはしない初期段階の話であるから、単に日露関係を改善するだけで十分なのである。 しかし、米国も日本も高度の民主主義国家であり、議会と世論が対外戦略を決定する国である。議会と世論は長期的には賢いことを証明するが、往々道に迷うことがある。もし、日米露が協力を怠れば、中露協力が生じる可能性がある。その結果は日本にとっては、中国1国に対抗するよりもはるかに悪い戦略的環境をもたらすことにな るだろう。それは中国にとっても面白いことではあるまい。 この「中と仲良くするために露と握手するいそがばまわれ」の戦略を、もし初めて耳にするようであれば、それは、日本において、新たに現われてきた頭脳集団との対話不足を意味している。狭い意味での中国専門家からは、このような発想は決して聞かれないであろう。
日中相互の文化的創造と日中の和解
恒久的な世界規模での平和と繁栄の時代が21世紀に到来したとき、歴史上初めて日中相互の文化的創造が行われることになるが、「日中の和解」は極めて重大な影響を与えることであろう。日中間、あるいは日韓間において、われわれの先人が、莫大な人的物的資源を投入したにもかかわらず、戦争から半世紀を経たいまも、「独仏の和 解」に匹敵する「日中の和解」が実現しないことは残念な事実である。過去半世紀のやり方に何か重大な欠陥があったのであろう。
さて、21世紀に、日中が政治的価値(自由主義)を共有する場合に、和解は自然にもたらされるのであろうか。答えは「否」である。政治的価値を共有する日韓がいま だに真の意味で和解に至らず、それどころか政治的価値を共有する韓半島南部が3分 裂の抗争を続けていることからもわかるように、単なる政治的価値の共有は、自動的 には和解をもたらさない。
独仏和解からわれわれは何を学べるか
20世紀最大の和解である「独仏の和解」から、われわれは何を学ぶだろうか。第1 は、それが、キリスト教会という最強のinstitutionの力を全く借りずに起きた和解プロセスであったことである。しかし、一方で、独仏の和解プロセスに精神的宗教的 価値がきわめて重要な位置を占めたという事実である。 「独仏の和解」を冷戦と経済協力により説明する説が昔からある。冷戦はまったく新しい分割線を設定し、西独・仏を同一陣営に置いた。また両国がシユーマンプランやECSCという経済協力を通じて和解を達成したとするのが通説である。 しかし、年表で検証すると通説の説明力が十分でないことがわかる。冷戦の戦略的 現実性が広く認識されたのは、チェコ・クーデター(1948年)とベルリン空輸(1948 年)以降である。とくに、チェコ事件はスターリンとヒットラーの類似性を確認させる出来事であった。米ソの過渡的な外交緊張関係が冷戦という恒久的対決に変容したのは、米国の再軍備が決定した50年6月25日以降のことである。 しかし、年表によると、独仏の指導者は1945年から50年にかけて、驚くべき速度で 相互の態度を変更している。和解に向かう態度変更の振幅にも驚くべきものがあった 。和解は、スイスのコー(Caux)を舞台に行われた。1950年には、両国は早くもシユ ーマンプランを発表(1950年)している。実際、和解の中心的人物となるロベルト・ シューマンとコンラッド・アデナウワーをはじめ、合計1983人のフランス人と3113人のドイツ人が和解のためのコーの会合に参加したのは46年から50年にかけてのことである。会合を主催したのは民間の任意団体であるMRAであった。 MRAの当時の活動はいまではほとんど忘れられているが、終戦直後の46-47年には、 独仏の和解の回路はMRA以外には存在しなかった。シーマン、アデナウワーは、それ ぞれの書簡で、MRAが、和解のために最初の組織化を行ない、重要で実質的な活動をおこなったことを認めている。MRAの創設者フランク・バックマン(米国人)はシユ ーマンの推薦で、独仏和解への努力により、早くも1950年にレジョン・ドヌール勲章 を授与されており、同様の理由からアデナウワーも同時期にドイツ連邦共和国最高勲 章の授与を支援している。MRAの活動がきわめて重要な位置を占めたことは証明されるのである。
戦後間もない1947年に、150名のドイツ大代表団が、フランス人コーラスが歌うド イツの歌に迎えられて和解のための会場に到着したという事実は、その後の急速な独 仏和解プロセスを暗示している。和解に必要とされたのは、ドイツ人の「懺悔」(徹 底的な反省)であるが、それ以上に和解を進めるための第1歩として必要とされたの はフランス人の「許し」(寛容)であったからである。
「独仏の和解」に最も献身的な努力をなしうる立場にあった教会は、戦後の独仏双 方において役割を完全に放棄した。その理由は、教会が第2次大戦中に、みずからの 役割を放棄したことにあった。ドイツでは、福音派教会もカトリック教会もナチス政 権にほとんど無抵抗であり、道徳面で不完全なまま敗戦を迎えたのである。フランス のカトリック司教団はドイツ進駐軍にすぐには妥協しなかったが、後期にはドイツと の関係を深めた。フランス教会司教団はビシー政権に協力し、レジスタンスを非難し た。このような国教会の道徳的破綻が、独仏の戦後の和解において、MRAという小さな任意団体に大きな役割を果させたのであった。
紛争解決の手法
MRAの紛争解決の手法は、両当事者に精神的感受性の高揚を引き起こし、相互の道徳的使命感に支えられた純粋で深い対話へ誘導するものである。具体的には、公開セ ッションでの参加者の個人発表は、しばしば告白の要素を含み、仲介者からは、祈りと激励がしばしば述べられた。この仲介者は、謙虚だが精神的説得においては繊細で高度な技法と経験を積むMRAの古参メンバーが勤めた。高揚した精神意識は、国民的 敵意という障壁を容易に乗り越えたのである。後悔、罪悪感、恐怖の感情は、相互の尊重や愛情、信頼によって克服され、独仏の当事者はこれらの感情にさまたげられずに接近した。それが戦争直後に起こったのであった。以上は、コーの「精神的宗教的 要素」に関する記述であるが、コーの国際会議は「社会的きずな」をも重視した。会合は形式ばらず、参加者は最短でも数日間(長い場合は数週間)滞在した。そのような日常から同士愛が生まれるわけだが、コーには家政婦がいなかった。ドイツ人もフ ランス人も、裕福な者も貧しい者も台所仕事を共同で行ったのである。また、スイスの山間という特別な場所が、「われわれは、ここにいるが故に、みな選ばれたる者である」という心理を生んだのである。
つまり、「社会的きずな」と「精神的宗教的要素」という2つの手段の絶妙な組み 合わせが、後に「コーの精神」とよばれる雰囲気をもたらしたのである。
日韓対話のサクセス・ストーリー
われわれ(岡崎研究所)は1997年6月に日韓の安全保障対話を始めた。テーマは「 統一後の朝鮮半島」における日米韓の戦略的ありかたを明らかにすることである。わ れわれは、ここで、コーの技法、とりわけ「社会的きずな」の分野での技法を適用す ることにした。
日韓間には安全保障対話のチャネルが存在しなかったので、日本側に新たにパネルを組織した。防衛庁、外務省、マスコミ、シンクタンク、学者が構成メンバーとなり 、韓国側にも同様のパネル(孔魯明元外務部長官ほか)が設置された。議論の主体は 30代〜45才の若手が行い、議論はすべて英語で行なわれた。 第1回はソウルで6月に行い、第2回は群馬県万座温泉ホテルで9月に行なわれた 。万座は標高1800メートルの国立公園の中にある特別な温泉郷である。ひなびた湯治場は噴火口のカルデラの底にある。50名の参加者は、湯治場に2日間滞在し、3食と 一日数回の入浴を通じて同士愛というべき感情をはぐくんだ。参加者には日本の若手国会議員や戦略家、軍人も含まれたが、韓国参加した若手文化人や戦略家15名は、大半が米国で博士号を取得しており、日本訪問は始めてであった。日本側参加者の多く が米国の学位取得者で、大半が韓国を訪問したことがない点も日韓で事情が共通した 点である。日韓の参加者の大半にとっては始めての日韓接触であった。当然、コミュ ニケーションは英語で行われた。宿泊は、2日間にわたり、狭い旅館のひと部屋に日 本人2名と韓国人2名、合計4名が寝泊りする合宿スタイルとした。 一方では、相手の言葉を全くしゃべることが出来ない若手を集めながらも、一方で は、小此木政夫(慶応大学教授)、重村智計(毎日新聞論説委員)、武貞秀士(防衛 研究所室長)、深川由起子(長銀総合研究所主任研究員)など、日本における韓国研 究の最高メンバーも合宿には参加した。
第3回会合は、経済危機の直後の12月初旬ソウルで行なわれた。われわれにとって は、9月から12月までの3ヵ月間に、韓国側の安全保障に対する態度がきわめて現実 的なものになったことが驚きであった。とくに、9月の万座会議では、朝鮮半島有事の際に、「日本の掃海艇が韓国領海に入ることは論外である」と発言した韓国側が、12月のソウル会議では、「日本の掃海艇が領海に入ることは当然である」と態度を完全に転換したことは驚きであった。(産経新聞98年4月5日付記事参照)
この対話はKJ Shuttle(Korea-Japan Shuttle)と呼ばれ、98年2月に東京・筑波で第 4回、3月にソウルで第5回が実施され、今後も隔月に実施される予定であるが、日韓 間の安全保障対話に従来なかったパイプをわずか数ヵ月間で構築することに成功した 秘密は、コーの「社会的きずな」の技法にある。 また、KJ Shuttleでは、日韓文化論もたたかわされるが、タガの外れた非難と弁護の応酬とならずに、建設的で示唆に富む内容の対話が行われている。建設的対話が可能となったのは、地政学上の現実、軍事力、同盟関係などの安全保障分野の下部構造から始めたことによると思われる。この点は、今後の同様の試みに重要な示唆を与えている。
筆者は、日韓の和解は21世紀の早い時点(2000ー2005年)に劇的に実現されるとの 予感を持つものであるが、その場合には、「日韓和解」は「独仏和解」に並べ称されることであろう。日韓関係の発展は必然的に中国が対日戦略関係を真剣に考え直す契 機となろう。
日中の精神的きずな
さて、コーの和解のふたつめの技法は「精神的宗教的要素」である。筆者自身、「 日米」、「日韓米」、「日米豪」、「日米・カンボジア」などの組み合わせでの「コ ーに準じた」会合に参加した経験を有するが、religious institutionの関与が無い場合の方が、和解に至る近道である。
そもそも、アジア太平洋地域においては、いずれのreligious institutionもdominantではない。日本のキリスト教徒は人口の1%に満たず、米国では仏教徒は少数派である。韓国と米国はキリスト教がdominantである点で共通するが、多数の宗派が対 立抗争しており、特定の宗派を和解の前面に持ち込むことは、かえって精神的対話を 、入り口で封じかねない。
しかし、「日韓の和解」は、精神的要素抜きには不可能であろう。なぜなら、和解に必要とされるのは日本人の「懺悔」であるが、それ以上に和解を進める第1歩として韓国人の「許し」が必要だからである。地上的な思考の外挿延長上には、必要な「 許し」を発見できないという事実をわれわれは直視しなければならない。
「日中の和解」を絶望的とする大きな要素がここに明らかになったわけである。戦後の日本人はおそろしく世俗的な国民であり、1949年以降の中国人もまた別の意味で 非精神的な国民であることである。一体、このような国民同士は「精神的宗教的要素 」を含む対話を行いうるのであろうか。この答えは逆説的なようだが「おおいに可能 」である。
第1に、日本人の既存のreligeous institutionに対する不信は、かえって日本人を純粋な「精神的宗教的要素」へ向ける可能性を秘めているからである。これは「わるい癖字を習った人よりも、一度も習字を習ったことのない人のほうが、上達が早い 」という理屈である。これについては、中国人についても同様ではないか。 第2は、英語を媒介とし、米国を仲介者とすることが近道であるということである 。これは経験則だが、米国人を仲介とし、言語は英語を使うことにより、より理性的 かつ普遍的な議論が約束されるであろう。これが米国を無条件にスタンダードとして 受け入れることを意味しないことは賢明な読者は理解されるであろう。
「日中和解」、そして文化創造への共同の努力は過去半世紀にわたり目指す山頂であったが、いまだに山腹を徘徊している理由は、明らかである。第1は、安全保障分 野の現実に目をつぶってきたこと。第2は、独仏和解の教訓に学ばなかったことである。その教訓は和解における「精神的宗教的要素」をないがしろにしてはならないということである。
間もなく実現されるであろう「日韓和解」の後に残される「日中和解」は、「独露和解」とともに21世紀の重い課題となるのであろうか。
(了)