イラク占領と日本占領の対比について

岡崎久彦

(読売新聞「地球を読む」2003年1月19日掲載)

 「われわれは日本を打ち破った国である。その後食糧を配り、憲法を起草し、労働組合を奨励し、女性に参政権を与えた。日本人が受け取ったものは報復でなく慈悲だった。」

 これは二〇〇一年一月大統領選挙の冒頭にブッシュが行った外交演説の結び部分である。

 誇り高い大国の史観には全て共通のものがある。歴史の細かい襞(ひだ)は切り捨てて民族の誇りとなる部分だけを、小学生でもわかる短い表現で語り伝える。これによって国民は自分の国の偉大さに誇りを持ち、そこから大国民としての矜持が生まれ、それによってまた偉大な国であり続けるのである。

 それにはそれ自体の価値がある。ただそうした一種の神話を、歴史的事実の検証なしに、現実の政治、即ちイラクの戦後処理にそのままあてはめようとするのは危険である。

 占領下の日本民主化の淵源は、日本が受諾した降伏条件であるポツダム宣言の第十項、「日本国政府は、国民の間の民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし」を日本政府が遵守したことにある。つまり、満州事変(一九三一)の直前までの大正デモクラシーの復活強化である。

 降伏直後の東久邇宮内閣は、むしろ占領軍の方が治安面の悪影響を懸念するのを押し切って言論と結社の完全自由化を支持し、長く続いた非常時体制下の規制に終止符を打った。

 続く幣原内閣は、大正デモクラシー時代の幣原の盟友達を集めて、その時代以来の懸案であった婦人参政権、進歩的な労働組合法、農地解放などを占領軍の指示を待たず着手した。これらの改革は全て新憲法の成立を待たず明治憲法の議会で法制化され今に残っている。この間マッカーサーは、エクセレントと言って、この進捗を見守り、支持している。

 占領の滑り出しは順調だった。軍は天皇の詔勅を受けて完全に武装解除し、国内の治安はいささかの乱れもなかった。やがて襲って来た食糧危機は、マッカーサーの命令による輸入食糧放出で救われた。当時の日本人は「戦争に負けた国に食糧を与えるアメリカとはどういう国だろう。これにはとてもかなわない」という思いを強くした。

 ところがそれ以降、占領軍の統治機構(ビューロクラシー)が確立し、活動し出してからの諸措置は、その後半世紀以上にわたる日本の政治、社会、そして日米関係にとって、プラスよりマイナスの方が遥かに大きかった。

 一つはジョゼフ・グルーが去った後の国務省や、ソ連等の発言力が強い極東委員会、その頃始まった極東軍事裁判のあまりにも強い反日姿勢が、天皇制維持を中心とするマッカーサーの占領政策を危くするのを惧れたマッカーサーが、先制防衛策として、天皇制維持と極端な平和主義を二つの柱とした新憲法を急遽作成して日本政府に押し付けたことである。これが、その内容の非現実性と同時に、日本国民の意思は全く関与せず、占領軍官僚の一週間の作文であるという憲法の非正統性として後々まで問題を残す事となる。

 もう一つは占領行政機構の中心が、左翼的ニューディラーによって占められた事である。彼らは、日本の歴史と伝統に全く無知であることを自ら公言しつつ、新しい日本を作るためと称して、過去の日本を悉く悪と断定して、日本の伝統を徹底的に破壊しようとした。その手段である徹底した言論統制と公職追放の不公正さも占領政策の疵となった。

 この政策は、浅薄な左翼インテリの無責任な気紛れであり、また彼らの私生活の放恣さもあって占領軍内部でも批判は強く、三年ほどで放棄された。ところが、日本を精神的、軍事能力的に弱体化させ、無力化させるというこの政策は、冷戦下における国際共産主義勢力の欲する所とぴったり適合した。

 その後は占領軍でなく共産主義勢力の強力なプロパガンダの下に、左傾化した教育、マスコミの労組を通じて、それが日本国民全体の思潮に浸透した。その結果、その後、日本を建設的なパートナーとして極東政策を遂行しようとする米国の政策は、日本人の多数が支持する保守政権によって受け容れられたにもかかわらず、常にマスコミ、世論の反対する所となり、米国の対日政策は挫折と失望を繰り返すことになる。

 本論の目的は米国の日本占領政策を批判する事ではない。イラク占領政策立案に何らかの貢献をできればと思って書いているのである。

 日本占領政策の最大の失敗は、グルーの後を継いだアチソンが意図的に、日本専門家を占領政策から疎外したことにあると思う。占領軍に対する国務省派遣の政治顧問は、日本政治家でなく中国専門家であった。もしグルーやユージーン・トーマンなどがマッカーサーの顧問であったらならば、左翼ニューディーラー達の跳梁は許さず、日本の民主主義は歴史と伝統を基礎としてより進歩成熟したものとなり、同じ自由民主主義国家同士としての日米関係はより確固たるものとなっていたであろう。地域専門家といっても、文化人類学的な専門家でなく、その国の政治家、学者等の指導的知識者と交遊し、相互の尊敬をかち得られるような、いわゆる「イラクの友人」(米国人に限らず英仏人、トルコ人でも良い)と言えるような人の意見を尊重すべきである。

 イラクの歴史は現在民主主義を享有している多くの国とそう異なるものではない。イラクも第二次大戦後は議会民主主義を試行したが、冷戦下で共産主義の脅威が高まるにつれて、親西側の反共独裁政権となり、それに対する民族主義の反撥で左翼革命が起こり、それがやがてサダム・フセインの個人的独裁政権に移行した。世界中の多くの国が多かれ少なかれ似たような歴史を体験しているが、九〇年代に至って、韓国、台湾、タイ、インドネシア、南米諸国等がすべて議会民主主義に行き着いているのはイラクの前途に希望を持たせてくれる。

 民主主義の定義には歴史が要る。英国の民主主義もマグナ・カルタから名誉革命まで五世紀半の試行錯誤を繰り返して来た。日本の大正デモクラシーは、政治の実態からいって現在の民主政治とほとんど変わらないが、一番大きな違いは、その間軍人に政治を委ねた試行錯誤があまりにも破滅的だったために、国民の間にもう民主主義以外の選択肢が存在しなくなっているその安定性にある。

 サダム・フセインの個人的独裁に苛(さいな)まれた経験は今後のイラクの民主主義にとって逆に財産となるかもしれない。イラクには、部族、宗教等、日本占領とは較べものにならない固有の複雑な問題もあるが、このイラクの長い歴史の試行錯誤の結果得られた自由が、こうした諸問題をも乗り越える価値として提示される事に成功すれば、イラクの前途に希望がもてる。

 戦争裁判は、国際法的にまだまだ難点があり、これを強行することはプラスにはならない。むしろ、権力の濫用だけでも十分訴追理由はあるのだから、裁判はイラク国民の手に委ねたらどうであろう。

 最後に物理的な豊かさの見本を示すことは重要である。米国の占領政策にいかなる瑕疵があっても、日本人が結局これに抵抗できなかったのは、米国風民主主義が達成した物質的豊富さに圧倒されたからと言える。(了)


英語版

ホームへ