日本の議会制度を作ったのは、野にあっては板垣退助、官にあっては伊藤博文といっても過言ではありません。
伊藤は明治十三年以降常に政府の中にあって明治憲法制定問題の中心的役割を果たします。憲法案を自ら草したのも、後に政友会総裁として政党内閣を率いたのも伊藤でした。
伊藤は、思想家、理論家というよりも実務家です。伊藤の学問的背景といえば、日本外史という歴史物語を読んだ程度です。しかし、強靭な体力で、睡眠も休養もほとんど取らず精力的に活動し、人の何倍も動き回って重宝がられ、吉田松陰から「なかなかの周旋屋」と評価された人です。
しかし、それだけの人ではありません。かれの書き残したものを見ると、同時代人の中で最も傑出した見識を持った人です。気取らず悪びれず誠心誠意実務に徹することにより、思想家も及ばないような調整力、歴史観、哲学を持つに至ることができた稀有な見本というべき人です。
明治十三年、政府のスキャンダルと国会開設運動で騒然たる危機の中で各参議が意見書を提出しますが、その中で伊藤の建議が断然光っています。しかし、その内容は政治思想というよりも冷徹な情勢判断と対策です。
「百年前にフランス革命があってから、その影響を受けない国はない。国によっては何時までも試行錯誤でゴタゴタしている国もあるが、上手に変化に応じて国の基礎を固めた国もある。日本でもここ数年間防ぎようのない勢いとなっている。中には乱暴な議論もあるが、これは世界の大勢の一部と考えるべきである。結局は専制をやめて、政治権力を人民と分け持つほかはない。人心を安定させるには詔勅でその方針を明らかにするのが良い」
そして、明治十四年には岩倉具視あてに「この問題に早く決着をつけないと薩長の維新の功も水の泡となる形勢です。一、二年の長短はどうでもよいのですが、明治二十三年に国会開設をお決めになればちょうど良いところでしょう」と書き、詔勅案を自ら起草します。
伊藤の情勢判断の正確さ、そして、それをすぐ政策に実現させる実行力は感嘆すべきものがあります。
ここで政府は三本建ての政策で事態を収拾します。第一は詔勅による国会開設の約束です。そして約束通り二十二年に憲法発布、二十三年に国会を開設します。九年先のことを約束し、政府も民党もその約束が守られることにいささかも疑いを持たず、その通りに実施したということ、当たり前のようですが、世界の憲政史上でも稀なことでしょう。いかに政治的に敵対し合っても日本人が信義を重んじ、お互いに信頼し合っている証左と言えましょう。
第二は苛烈(かれつ)なる弾圧です。集会条例、新聞紙条例等を改正して取り締まりを強化し、これに反発する自由党員を多数検挙しました。自由党の壮士の中には、これに反発して、板垣など中央の統制に服さずに加波山などで暴発する者も出てきて、板垣の表現では「腐った縄で六頭の馬を御するような」状態となります。当局の締め付けが強くて資金も集まらず、板垣が私財を投じても焼け石に水で、結局、せっかく賑々(にぎにぎ)しく登場した自由党も解党に至ります。
なお、反体制運動が盛んだった一九六〇年代後半の史観は加波山事件などを明治の自由党の代表的な活動のように描写していますが、これは浅間山荘やよど号ハイジャック事件のように大衆から遊離した例外的少数の行動で、板垣を中心とする自由党主流派は、常に英国風憲政の実現を目指す穏健な人々でした。戦後は自由党をフランス風共和思想として、改進党と対比させる史観がありますが、それは間違いです。
第三が政府による憲政の本格的準備です。
政府は、伊藤個人にわざわざ詔勅をもって「欧州立憲諸国に至り、その政府または碩学(せきがく)の士と接して」憲政を研究するよう命令します。ここで伊藤は、吉野作造によれば「まるで一介の書生、極めて謙遜(けんそん)な態度でまじめな研究に一身を傾倒」しました。はじめはベルリンでドイツ流の理屈っぽい憲法論に辟易(へきえき)したようですが、ウィーンでロレンツ・シュタインの講義を聞いて豁然(かつぜん)として前途の展望が開け、「死処を得たる心地」で楽しい気持ちになったと岩倉あての書簡に書いています。
伊藤は明治十六年夏に帰朝しますが、その年初に出獄していた陸奥宗光に対して留学をすすめ、陸奥は翌年外遊します。シュタインの思想は、陸奥が遺した詳細緻密なノートの方が分かり易いのですが、シュタインの思想は一口で言えば、フランス革命以来、百年の試行錯誤から学んだ教訓として、立憲君主政治が最も優れた政治制度であり、国王の下に、独立の行政府と立法府が存在する形が望ましいということです。
これはまさに、岩倉、伊藤が希望してきた、当時の日本の実情に最も即した政治論でした。伊藤は、この実現のためならもう命を捨てても良いと、まさに「死処を得て」安心立命の境地に立ち至ったのです。