狷(けん)者というのは、ヘソ曲がりのことで日本語ではあまり良い意味ではありません。しかし孔子は論語で、ちょうど良い人間というのはなかなか得られないのだから、それならば「必ず、狂か狷」が良いと言い、狂者は他人(ひと)のしないことをする人であり、狷者や皆がすることでも、いや俺だけはしない、という所のある人だと説明しています。
土佐のいごっそうというのは、まさに狷者です。皆のするようにはうまく立ち回れず損をするという不器用な面があります。
維新の過程で、討幕の力の基礎である薩長連合を作ったのは土佐の坂本竜馬、薩長軍と並んで東北に転戦して武勲を挙げたのは板垣退助と、薩長に次ぐ維新の功労者を出しながら、藩閥政府の中枢には誰も残っていません。
板垣退助は、ある意味ではいごっそうの典型と言えます。極端な潔癖症で、他人の茶碗を使うのがいやで自分の茶碗を持ち歩いたといいますが、その潔癖さで武士的教育を額面通り実行しました。「目に利を見ず、耳に利を聞かず、心に利を思わず、ただ武を磨き、恥を知る心を養うことをもって武士の本分」としていました。孔子のいう「利を見て義を思い(自分の得になることを見れば、それに飛びつかず、まずそれが義にかなっているかどうかを考える)」を実践し、無類の「お人よし」と呼ばれ、維新の功臣でありながら、一生赤貧に甘んじていました。
この板垣が日本のデモクラシーの先駆者となるのです。板垣は生粋の軍人です。佐幕派の牙城会津攻めの時は、土佐の兵を率いていました。攻める側も守る側もほぼ同数の三千人。ただでさえ城壁によって守る防御側が有利ですが、板垣が心配したのは会津藩の町人や農民が一緒に戦えば、官軍に勝ち目はないことでした。ところが戦争が始まると一般人は皆荷物を背負って逃げてしまいました。
そこで板垣が考えたのは、それは江戸時代に侍が庶民と苦楽を共にしていないから、いざという時に苦しみを共にして貰(もら)えないのだ、今や帝国主義時代で日本は何時列強の侵略を受けるかわからない、四民平等になって一致して国を守らねばならない、ということでした。
これは戦後の左翼偏向史観が目を背(そむ)けて語ろうとしないところですが、明治の自由民権論者は、板垣から中江兆民に至るまで、愛国主義、国権主義でした。それは帝国主義時代に日本の国を守らねばならない、という緊張感があったからです。
軍事上の勝敗というのは、議論を許さない厳しい結果が出ます。その結果を見て、封建主義の根本的な問題点をここまで見抜いた洞察力と、それを一生変えない問題意識として自由民権運動を推進した信念の力には感嘆すべきものがあります。
板垣は西郷を深く敬愛していました。維新で、いや日本史上誰が最も純粋な人物かと言えばこの二人を措(お)いてないのですから、意気投合したのも当然です。後年板垣は西郷を評して「維新三傑といっても、西郷と、木戸、大久保との間には零(ゼロ)が幾つあるかわからない。まるで算盤(そろばん)の桁(けた)が違う」と言っています。
明治六年征韓論に敗れてそれぞれの故郷に帰る時、板垣は、民選議院−−政府の任命でなく選挙で選ぶ議院、つまり今の議会制度−−の設置を生涯の目標にすると述べ、西郷は手を打ってこれを励ましたといいます。
土佐に帰った板垣は、明治七年一月、民選議院設立の建白書を出します。その冒頭板垣は、今の日本の政治権力は天皇にも人民にもなく、官僚にあると指摘します。そして国民は税金を払う以上その使途に発言権を有するという民主主義の基本から説き起こし、日本の民度ではまだ議会政治は無理だという論に対して、人民を教育するには、まず議会を持たした方が良いと反論しています。今なら当たり前の議論ですが、無知な人民に選挙権を与えて果たして良い政治になるだろうかという議論は、憲法発布と議会の開設、制限選挙の撤廃、婦人参政権、そして植民地の自治、独立容認のあらゆる局面で過去二百年繰り返し論じられた問題です。
そして板垣は愛国公党という政党を設立しますが、これが後の自由党、政友会、自由民主党という大河の源流となります。
おりしも、木戸も政府を離れて、孤立してしまった大久保の下の政府は、木戸と板垣を中央に迎え入れる妥協をして、明治八年、漸進的に立憲政体に向かう方向を詔勅で明らかにし、将来の上院を想定した元老院を設けます。
陸奥は、板垣の建白書と時を同じくして、薩長専制を痛撃する『日本人』という大論文を書き、官途を辞していましたが、板垣と共に元老院議員に任命されて、元老院による中央権力の抑制という議会本来の機能の強化に努力します。
しかし、保守派の抵抗は強く、また政府も木戸、板垣の中央復帰を得た以上もう譲歩の必要もなく、陸奥らの努力は挫折して少しも進展のないまま、西南戦争を迎えます。