岡崎久彦
「百年の遺産-日本近代外交史(69)」


【『閉された言語空間』】
傷跡深い占領時代の言論統制

(産経新聞2002年6月21日掲載)

 江藤淳氏は平成十一年、「いまや残っているのは江藤淳の形骸(けいがい)に過ぎない」という絶望的、自己否定的な言葉を残して自殺しました。

 しかし、その十年前、平成元年に彼が世に問うた『閉された言語空間』こそ後世に残る彼の事業です。

 その冒頭、江藤氏は、文芸評論家として毎日文芸作品を読んでいるうちに、自分達が住んでいる「言語空間が、奇妙に閉され、かつ奇妙に拘束されている」もどかしさを感じ、そのルーツを探って辿(たど)りついたのが、占領時代の言論統制だったといっています。

 私自身も、三十年来日本の安全保障を論じてきましたが、最もしばしば受けた批判は「それは間違っている」という批判でなく、「そんなことを言っていいのか」という警告でした。私に「いいのか」と訊(き)かれても、返事のしようがありませんが、警告した本人は、明らかにそういうことを言わない自己統制をしているわけです。私の感じたのは、安全保障論の禁忌(タブー)でしたが、江藤氏の感じたのは、「日本人のアイデンティティーと歴史への信頼を崩壊させようという意図」です。

 文学者にありがちな短絡(たんらく)や思い込みはあるのでしょうが、日本を根こそぎ変えるというケーディスなどの意図が言論統制政策に当然反映されていたと考えれば、正確な指摘かもしれません。

 占領軍の検閲は大作業でした。一カ月に扱った資料は、新聞、通信三万、ラジオ・テキスト二万三千、雑誌四千、その他出版物七千にのぼり、四年間で三億三千万の信書を開封検閲し、八十万の電話を盗聴したといいます。

 そのためには、高度の教育のある日本人五千名を雇用しました。給与は、当時、どんな日本人の金持ちでも預金は封鎖されて月に五百円しか引き出せなかったのに、九百円ないし千二百円の高給が支給されました。

 その経費は全て終戦処理費ですから、占領軍は、日本国民の税金で金に糸目をつけずに優秀な人材を集めたわけです。

 今はそういう人達の過去は隠されていますが、敗戦の窮乏(きゅうぼう)の中で恥を忍んでこの作業に従事したのでしょう。

《日米の憲法違反》

 そもそも検閲は極秘作業でした。何時(いつ)開始され、何時終わったかも公表されていません。それは当然です。それはポツダム宣言第十項の「言論、思想の自由の尊重」の違反です。また、これに従事する米国民にとっては合衆国憲法違反、日本人にとって新憲法違反です。

 したがって、検閲が存在するということに言及すること自体が、真っ先に検閲の対象となり、これが予想外の大きな影響を生み出します。

 戦前、戦中の日本の検閲は、削られた部分が××の伏せ字となっていたので、その前後の文脈から推測すれば、おおよそそのいわんとするところはわかりました。検閲される方も、自分の考えを譲る必要はなく、昂然(こうぜん)と、削りたければ削れといってもよかったわけです。

 しかし占領下の検閲では、文章の基本的な構想、その背後の発想まで変えないと論理的な文章になりません。それを拒否すれば、文筆を業とする者は生活の資を失います。

 それを毎回するということは思想の改造を強いられることです。

 歴史家ダワーは、「日本人は、すぐにその新しいタブーに従って自ら検閲することを覚えた。誰も最高権力に勝てないことを知っていて、敢(あ)えて挑戦しようとしなかった」「勝者は、民主主義と言いながら、考え方が一つの方向に統一されるように工作した。あまりにもうまくそれに成功してしまったため、アメリカ人などは、それが日本人の特性であると考えるに至った」と言っています。

《占領後も維持、増幅》

 そしてそれが七年続いた後、アメリカ自身は左翼的な考えを捨て去ってしまいました。ところが、今度は日本の左翼の言論、教育により、それが維持、増幅されたため、いまだに占領初期の政策に迎合することが戦後日本思潮の底流となっていることは、江藤氏が鋭く感じ取った通りでしょう。

 検閲の対象は広範囲にわたります。占領政策批判、東京裁判批判、新憲法制定の経緯などはもとより、米英ソ中朝鮮について、戦前からの全ての行動の批判、戦後の日本の悲惨な世相、占領軍の放恣(ほうし)な行動批判等々にとどまらず、冷戦等外部世界への言及も含まれました。

 ダワーは「連合国はいかなる罪も犯していないという神話は非現実的、超現実的な世界を生み出した。

 日本人は、米ソ同盟はすでに崩壊したこと、中国が国共に分裂したこと、アジアで反植民地闘争が再び起こっていることなど知らない時間のひずみ(タイム・ワープ)に閉じ込められ、第二次大戦の勝者のプロパガンダを繰り返し聞かされるだけだった」と書いています。

 それはまさに、戦後半世紀の安保論争で痛切に感じられたことです。国の安全というのは、国際軍事バランスの中で相対的なものですから、まず国際情勢の分析が先にくるべきものなのに、日本国内の議論は、外の環境に目をつぶって、過去の戦争の悲惨さと憲法の条文だけで議論していました。日本の宿弊である情報軽視の戦後の源流もここにありましょう。


「百年の遺産-日本近代外交史」

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