ここでは従来の、維新の勝利者側の史観ではあまり取り上げられていない歴史に触れなければなりません。それは、自らもう一度省みても、陸奥に対する依怙贔屓(えこひいき)からではありません。
藩閥専制の問題を避けて通っては、明治の自由民権運動も、国会開設以降原敬に至る二十数年の民党の苦闘も理解できないからです。それが従来の、大正デモクラシーに対する不当に低い評価の一因であるとも思われます。
すべての革命がそうであるように、革命当初は誰もがバラ色の新世界を夢見る時期があります。西郷隆盛が江戸城を攻めようとしている時に、留守の新政府が、五箇条の御誓文で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、民主主義の神髄を見事に表現したのも当時の雰囲気を示しています。
しかし、革命が成功して時が経つにつれて、政治権力は新しい実力者によって掌握され、それに従おうとしない分子は、疎外され粛清されるのは、二十世紀の多くの革命を見てきたわれわれの世代が良く知っていることです。
外国事務局の陸奥は、持ち前の才能を発揮して業績を上げます。箱館(函館)攻略はじめ長い期間明治新政府の主力艦となった東艦(あずまかん)を、幕府側でなく朝廷側に米国から引き渡させる外交交渉に成功し、また、買い取り資金の調達までしたのは陸奥の働きです。
しかし、新政府の人事が藩閥偏重となるにしたがって陸奥の憤懣(ふんまん)は高まり、また、維新の改革を進めるには、藩を廃して郡県制にしなければならないという、正論を進言しても受け容れられず、ついに新政府を離れて故郷和歌山に帰ります。
陸奥の胸中にあった計画は壮大なものでした。新政府が動かないならば、和歌山藩をまず改革して、プロシャ式の近代的軍事国家を創り出そうということです。
鳥羽伏見の戦いの後、関西の諸藩は一斉に朝廷側に靡(なび)きますが、和歌山藩は徳川との深い関係でそうもいかず、鳥羽伏見の敗兵を和歌山に収容し、手厚く関東に送り返したりして朝廷側の印象が悪く、一時は滅亡も危惧されました。陸奥は岩倉具視を説いてこれを救い、その代わりに和歌山藩改革の全権を得ました。
改革は開明的な蘭学者津田出を中心に一気呵成(いっきかせい)に行われました。侍の特権を廃して刑法の適用を平等にし、官僚機構の頂点たる勘定奉行に民間人のヤマサ醤油の浜口梧陵を任命しました。最も抜本的だったのは侍の家禄を二十分の一に削減して改革の財源を捻出したことです。その時の通達では、本来家禄というものは国家に仕(つか)え民を治めるためのものであって私(わたくし)すべきものではないと心得よ、と申し渡しています。
兵制は、一家の跡継ぎを例外として、士農工商を通じ平等に適用されました。こうして創られた軍隊は、明治四年に解散されるまでに、歩兵六個連隊、騎兵一個連隊、砲兵二個連隊、工兵一個連隊、二万人近い精鋭となり、弾薬製造所では毎日一万個ずつの弾丸がドイツと同じ工程で生産されていました。
この改革はセンセーションを呼び、英、米、独の公使は和歌山まで参観に来ました。薩摩からは西郷従道が来て、やがて村田新八が来て、西郷隆盛が来たいが来られないので、話を聞きたいからぜひ上京して欲しいと津田に伝えています。
薩長の受けた衝撃は想像にあまります。薩長は維新の功で加増を受けていますが、それでも万単位の軍隊を出すことは困難です。紀州の場合は、一歩誤れば朝敵として藩が滅亡する瀬戸際までいったので、禄を二十分の一にし、四民平等にする改革もできたのですが、とくに士族の国薩摩にそんな改革ができるはずがありません。陸奥自身、紀州十万の兵を出すこともあえて難(かた)くなく、薩長恐るるに足らず、と洩らしたともいいます。
新政府はこれを妨害しようとしますが成功せず、逆に西郷隆盛は、津田に辞を低くして経綸を問い、郡県制度、徴兵令の必要を聞いて、津田を首相に推薦して改革を実行しよう、とまで言います。
胸中一片の私心もこだわりもなく、優れた人間への尊敬と、国事しかない西郷の真面目躍如(しんめんもくやくじょ)たるものがあります。西郷はこれを実行して津田を「首相」に推奨したのですが、藩閥政府でそんな意見が通るはずもなく、津田に食言の罪を謝したといいます。
新政府は、明治四年廃藩置県を決定し、五年には「全国募兵の詔(みことのり)」で徴兵制が施行されます。薩長史観ではもとよりその背景は隠されていますが、和歌山の改革をこのまま放置できないので、改革の先取りをする必要のあったことは十分想像できます。
陸奥の失望、挫折も想像にあまりますが、陸奥は反対する部下を抑え、軍を解(と)いて新政府に帰順します。
新設された強力な権限を有する大蔵省は、薩長出身でない津田出、浜口梧陵、陸軍の幹部に紀州軍の岡本柳之助、鳥尾小弥太も登用されますが、それも一時の紀州懐柔のためで、明治政府はやがてその人々も疎外し、藩閥で固められていきます。