岡崎久彦
「百年の遺産-日本近代外交史(49)」


【近衛、広田の無為】
ドイツの仲介も一夜で反故に

(産経新聞2002年5月29日掲載)

 昭和十(一九三五)年から十二年に至る極東の危機の時期、日本の政治と外交は何をしていたのでしょうか。厳しく言えば、何もしていません。新聞と世論の大勢、それに乗った軍の突き上げの流れのままに漂っただけでした。

 昭和九年にできた岡田啓介内閣の外相をつとめた広田弘毅が二・二六事件以降十二年一月まで総理となり、また十二年六月の近衛文麿内閣の外相となり、この間の外交を担当します。

 広田は外相の時は、和協外交を標榜(ひょうぼう)しますが、さしたる具体策もなく、軍の北支工作はなすがままにまかせ、外相の時も首相の時も、これを追認し、推進する方針を決定しています。

≪破局への道を加速≫

 また首相になって早々軍部大臣現役制の復活を認め、また陸軍が独走して作った日独防共協定を、「国民の孤立感を緩和する」ため、薄墨色程度のものなら良いという意見を受け入れ、将来の枢軸同盟への道を開きます。

 広田内閣の後、西園寺は軍を統制する切り札として、宇垣一成を指名しますが、陸軍の反対で実現しません。

 その時、杉山元教育総監は、宇垣に「これと申す確たる理由はないが、なにぶん軍の一部の連中が騒いで取り鎮めに困るから、大命を拝辞して欲しい」と言っています。

 これが当時の雰囲気を象徴するものでしょう。誰も確たる政策も信念もなく、軍の若手の突き上げに抵抗しなくなっているのです。

 近衛文麿となると、大勢順応どころか「軍人に先手を打つ」ことにより主導権を回復しようとして、軍より先走りして積極論を唱え、破局に向かってスピードを速めます。

 昭和史を振り返って、大日本帝国を破滅させた責任者は誰かと言えば、自決、刑死した人の死屍(しし)に鞭打つことになりますが、広田、近衛、それから後に陸相、参謀総長となる杉山と、いずれも大事な節目に指導力を発揮せず、大勢順応した不作為の罪を責められるべき、この三人と断じていいのではないでしょうか。

 それはまた、この三人にとどまらず、昭和前期の人々の通弊でもありました。米内光政、宇垣一成のような骨のある人が、あまりにも少なかったのが悔やまれます。

 此人等妥協を旨と心得て、風を避けつつ、濤(なみ)に押されて

 此人等信念もなく理想なし、唯熱に附するの徒輩(とはい)のみ

 此人等国を指導せしかと思ふ時、型(人間の幅、深み)の小さきに驚き果てぬ

 狷介不羈(けんかいふき)の東郷茂徳が獄中の仲間を痛罵(つうば)した歌です。

 事態の流れを食い止めようと、政府部内で頑張ったのは、外務省の石射猪太郎東亜局長と石原莞爾参謀本部作戦部長でした。

 石射は、満州事変不拡大のための策を広田に進言し、現に広田さえしっかりしていれば、それが成功するところまで根回しするのですが、広田は閣議で妥協し、石射は辞表を出して抵抗します。

 石原は、戦略家であると同時に稀にみる思想家でもあります。一旦(いったん)五族協和の満州国建設という思想体系を作った以上それは一貫させます。そのためには、漢民族に対し、優位でなく平等の相互尊重関係が基本であり、華北の主権が中華民国にあることを認め、華北特殊地域なる概念を清算すべしと主張しました。

 折から、七月三十日に天皇より近衛に「このあたりで外交交渉を」というお言葉もあり、石射と石原が協力して和平案を作ります。

 要は中国側が今後満州国を問題としないという黙約の下に、華北の諸協定は廃止し、その代わり中国側は反日運動を取り締まるという案です。

 十月の駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平仲介の際の日本案は、これに内蒙古の自治等若干の要求が追加されただけで、ほぼ同じ線でした。これをトラウトマンが蒋介石に伝えたところ、白崇禧は、「これだけの条件とすると、何のために戦争をしているのか」と言い、他の列席者もこの提案を支持したといいます。

≪態度変えた杉山陸相≫

 ところが十二月七日、この条件で交渉していいか、とトラウトマンがもう一度確認を求めた際、外、陸、海三相会議は確認しますが、翌朝杉山陸相が、この仲介は断ることにした、総理も同意している、と言います。

 石原がすでに満州に転任させられている陸軍内における強硬派の部下の突き上げで一夜にして約束を反故(ほご)にしたのです。

 石射は、何とか復活をはかって、閣議に上げるところまで持っていきますが、閣議では、華北の諸協定は存続し、華北は特殊地域として行政権は国民党政府に返還せず、しかも戦費の賠償まで要求するという条件が付加されます。つまり和平はしないということです。しかも、その間、原案を支持したのは海軍だけで、近衛首相も広田外相も、一言も発言していません。これだけの重要な内容に二人とも何の意見も見識もないのは驚くべきことです。

 会議から出た傷心の石射の目に映ったのは、南京陥落を祝う提灯行列でした。


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