陸奥が勉強にいそしんでいる間に時代は大きく変わります。
陸奥の父宗広追放後、伊達家が一家流浪の苛酷な処分を受けるのはペリー来航の年、陸奥が江戸に出たのは安政の大獄の年です。そして、その二年後に、井伊大老暗殺のために佐野竹之助が水戸を出て江戸に向かった時の詩は、同じ郷関を出るにしても、もう陸奥の詩とは違っていました。
決然国を去って天涯に向かう
生別また死別を兼ねるの時
弟妹は知らず阿兄(あけい)の志
慇懃(いんぎん)に袖をひいて帰期を問う
(お兄さんは何時(いつ)帰るの?と訊いている)
苦学して学者となり故郷に錦を飾ろう、という徳川の平和の時代はすでに去り、国を出る時は命を捨てる覚悟だという、志士と英雄の時代がきたのです。
江戸にいた陸奥は、このすべての歴史的変化を肌で感じていました。そして、やがて、自ら「蛍雪苦学(けいせつくがく)の志を絶ち」天下の志士たちと交流して国事を論じます。人物がいると聞けば百里の道を遠しとせず会いに行くのが東洋の伝統です。陸奥は、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、土佐藩の板垣退助など当時既にひとかどの人物であるという噂の高い人物たちの門を叩きます。伊藤博文ともこのころ会っています。
徳川幕府の崩壊はペリー来航に始まります。
日本の開国を迫る欧米諸国の近代的武力を前にして、これに抵抗し得べくもないことは、国の政策を現に担当している幕府当局者にとっては自明のことです。しかし二百年間鎖国を国是とし、人々が開国を受け容れる用意がない時に幕府が開国を独り断行するのは政治的に困難でした。そこで国内のコンセンサスを得ようとして諸侯の意見を求めます。
これが幕府転落の第一歩となります。それまで、事の大小となく、誰にも諮(はか)らず、譜代大名出身者だけの幕閣で決めてきたのを、外様大名を含む外部の意見を徴したことがすでに専制体制の基礎を揺るがします。フランス革命の発端が、財政困難を克服する税制上の措置について貴族達の合意を得ようとして、百八十年間開いていなかった三部会を招集したことにあったのと同じです。
そして、広く意見を徴しているうちに、朝廷の勅許を得ようと考えたのが結果として命取りとなります。
そもそも武家は七百年間朝廷から権力を奪ってきたのですから、これに発言権を与えるのは重大なことです。
当初幕府は勅許などは形式的なもので、すぐ取れると思っていたようです。ところが、朝廷とその周りの志士達で攘夷論(じょういろん)が強く勅許はなかなか下りません。そこで幕府は、やむを得ず、勅許なしでアメリカとの通商条約締結に踏み切りますが、いったん幕府外の人々にまで政策論議を許してしまった以上、時の将軍継嗣問題など他の政治問題もからんで世論が沸騰します。そこで安政の大獄で反対派を弾圧しますが、それがまたかえって反発を呼び、幕府の中央統制力は弱まっていきます。そしてついに武力で反抗する長州の征伐に失敗して、もはや徳川幕府を維持する実力もないことが明らかになってきます。
こうなると、徳川家としては最後は朝廷と協力して事態を収拾する、いわゆる公武合体という妥協案しかなくなりますが、その前提として、大政奉還を行ったのが幕府の命脈にとどめをさします。そうなると徳川家は単なる一大名に過ぎなくなるので、鳥羽伏見で薩長連合軍と衝突した後、各藩は、朝廷側か徳川側かと迫られると、お家の安全のためには朝廷側に帰順せざるを得ず、たちまち天下の権は天皇を戴く薩長の手に移ります。幕府崩壊の過程を一口で言えばこういうことです。
この疾風怒濤の五年間、陸奥は、坂本竜馬にその将来を嘱目(しょくもく)され、勝海舟の海軍操練所、竜馬の海援隊に入って、国内、国際情勢に目を開き、攘夷論を脱して、それが一生変わらぬ信念になる開明思想を得ます。
鳥羽伏見の戦いの直後、誰も先の見通しを持たなかった時期に、陸奥は「独り天下の形勢に察するところあって」、英国公使パークスを大坂に訪れ、その結果を京都に帰って岩倉具視に意見書として出します。内容は、今後は開国進歩主義を取る他はなく、まず、王政復古と開国政策を内外に闡明(せんめい)するということでした。
岩倉は全面的に賛成しました。王政復古した以上外国との正式国交の当事者となるのは当然のことですが、そのためには今までの攘夷の姿勢を捨てねばなりません。そこで鳥羽伏見の戦いのわずか五日後、明治新政府は外交文書で各国公使館にこれを通告し、国内には、「大勢まことにやむを得ず、この度朝議の上断然和親条約取り結ぶ」旨布告しました。
その翌日、岩倉は陸奥を外国事務局御用掛に任命しました。一緒に任命されたのは、伊藤博文など薩長の錚々(そうそう)たる俊秀ばかりで、その中で陸奥は最若年の二十五歳でした。これは陸奥独りの判断と行動力でかち得たものです。