昭和四(一九二九)年田中義一内閣が総辞職すると、西園寺公望は、野党民政党の浜口雄幸を後継首相に奏請します。
浜口は幣原と同じく、明治初年に生まれた明治の第一世代です。旧制三高の前身の高等中学で幣原と同期、共に東京帝大法科に進み、幣原は外交官試験、浜口は高等文官試験で大蔵省に入った、明治教育が生んだ天下の秀才であり、幣原の莫逆(ばくぎゃく)の友でもあります。
組閣翌年早々の総選挙で、民政党は二百七十三議席と圧勝します。それまで半年間の浜口内閣の業績はといえば、財政立て直しのために、官吏の一割減俸までした緊縮財政で、政友会の放漫財政と対比されて、民政党は不景気の代名詞のように言われていたのですから、決して人気取り政策の結果ではありません。
≪揺れ戻った世論≫
世論の振り子が、また戻ったのです。「幣原軟弱外交」では、シナの日本権益が侵(おか)されると心配した人々も、今度は田中外交で、反日運動、日本品ボイコットが起こったりすると、浜口、幣原の人柄もあって、やはり民政党の方が安定感がよいと揺れ戻ったわけです。
昭和初期の日本は、まだまだ一直線に軍国主義に向かうにはほど遠く、デモクラシーのチェック・アンド・バランスが正常に機能する社会でした。
この民政党の圧倒的優位を崩そうと、田中の後継の犬養毅の政友会が取り上げたのが、ロンドン軍縮に関連する統帥権干犯問題でした。軍の統帥権を制限しようとしつつも、山県有朋よりも先に無念の死を遂(と)げた原敬の後を継ぐ政友会が、やっと政党政治が軍の統帥権を抑え込める実力を持ったその時期に、党争のために、統帥権の独立を主張して寝た子を起こしてしまったのです。
政党政治花盛りを迎えた油断だったのでしょう。それが十年経たないうちに、当の犬養は暗殺され、政党政治が終わりを告げるとは、誰も予想しないことでした。
軍国主義時代には、軍のすることを少しでも批判しようとすると、下級士官までが、「統帥権の独立を侵犯するのか」と軍刀を振り回すことも間々(まま)あり、明治憲法下の統帥権の独立が国を滅ぼしたという史観も生まれました。
しかし、そもそも統帥権の独立が明治憲法の正統的解釈かどうかも疑問です。平和主義者の海軍評論家水野広徳は「憲法第十一条は『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とあるが、第十五条は『天皇ハ爵位勲章……ヲ授与ス』とあり、だからといって、恩賞権は独立して総理大臣が関与できないことはない。それと同じことだ」と論じています。
ちなみに水野は、日本海海戦で水雷艇長として勇戦し、金鵄(きんし)勲章を持った元海軍軍人ですが、すでに一九二四年の論文で「日米戦争は持久戦になる。その場合、食料、原料は隣邦に需(もと)めるという国防方針のようであるが、腕ずくでもお前の国の資源を取り上げるぞと脅(おど)かされて隣邦は好意を持つだろうか。世界中を敵としなければならない」と、将来を的確に予見し、その後、「戦えば必ず四面楚歌の声、三千年の歴史あわれ亡(ほろ)びん」と歌っています。
やがて軍国主義の叫びの中に消されていきますが、これが大正デモクラシーのディフェンス・インテレクチュアルの声です。
ロンドン軍縮は、さきのワシントン軍縮が主力艦を制限したのに続いて、巡洋艦以下の補助艦の量を制限する条約です。
海軍軍令部が難色を示したのを、政府が抑えて署名したのですが、その時点では軍令部もやむを得ず、これに従いましたが、政治が完全に軍を抑えていたのです。
しかし、その批准に際し、政友会が、政府攻撃の手段として、これを統帥権の干犯としてキャンペーンしたのが、騒ぎのもととなり、将来長く禍根(かこん)を残すことになります。
批准自体は、浜口、幣原の完勝でした。浜口は議会で「憲法上、統帥権も、兵力決定権も、条約締結権も、天皇の大権であり、一つの大権が他の大権を侵犯することはあり得ない」と、統帥権の独立を真っ向から否定する正論を述べます。
西園寺も、裏で積極的に動き、浜口に対して、反対派の牙城である枢密院が「不条理なことを言うならば、総理は職権をもって枢密院議長、副議長を罷免(ひめん)してもよい」とまで言い、浜口は「一種のクーデターであるがやむを得ない」と肚(はら)を固めます。この決意の前には枢密院も屈して批准を承認します。
≪条約は批准されたが≫
しかし、一旦(いったん)政友会が火をつけた国権主義的親軍感情はもうおさまりません。条約批准の一カ月後、浜口は右翼のテロに重傷を負い、走り寄った幣原に「男子の本懐だ」と言い、やがて死にます。
これがその後海軍中尉三上卓が「昭和維新の歌」を賦(ふ)しつつ犬養を暗殺し、政党政治を終焉(しゅうえん)させる五・一五事件に至る昭和のテロの始まりとなります。
もう一つの重大な影響は、それまで一糸乱れぬ統制を誇っていた海軍が二派に分裂し、喧嘩両成敗の形で多くの良識派の人材を失ったことです。その一人堀悌吉について、山本五十六は「堀と巡洋艦とどっちが大事なんだ」と慨嘆したといいます。