江戸留学を志した十五歳の陸奥は、もとより旅費もないので、高野山の老僧が江戸に行く供(とも)として東海道を下り、江戸についてからも書生をしたり、筆耕のアルバイトをしたりしながら安井息軒など一流の漢学者について勉強します。
男児志を立てて郷関を出(い)ず
學若(も)し成ら無くんば死すとも還(かえ)らず
……
人間到る処(ところ)青山あり
青山はお墓のことです。今でも韓国では、青々とした芝を植えた土葬の盛り土が見られます。
一人前の学者として認められるようにならなければ、おめおめ故郷に帰らない。他郷に骨を埋めるという覚悟です。
スパルタの若者が戦いに赴く時、母親が「汝(なんじ)、楯(たて)を掲げて(勝利を誇って)還れ。しからずんば、楯に載りて(戦死者は楯に載せる習慣)還れ」と言ったのと、文武の違いはあれ、同工異曲です。
元和偃武(げんなえんぶ)(一六一五年、元和元年の大坂城落城)以降、それまでのように武勲で出世する途を絶たれた武士階級としては学問で身を立てるのが若者の夢となりました。
現に、新井白石や荻生徂徠は、ちょうど陸奥と同じように、親が主家を逐(お)われて、青春時代を貧窮の中に過ごしますが、刻苦勉励して大学者となって、時の将軍を補佐して権勢を振るいます。
儒学というのは、畢竟(ひっきょう)は国を治めるための学です。その儒学に最も優れた人を、政府も世間も尊敬し、その教えを乞うという政治社会制度が生きていたのが、徳川時代です。その結果、世界史でも稀な文治社会が出現しました。
安岡正篤によると、世界史で最高の文治社会は後漢の二百年と徳川の二百五十年でした。それだから、その直後の三国時代と幕末維新の時代は、活躍する人物が皆一流の教養人であり、その言動が一つ一つ味わい深く、その歴史が面白いのだそうです。
後漢(二五−二二〇年)の初代光武帝は、武力で天下統一を果たしながら、武事を厭(いと)い「天下未だ平らかならざるに、すでに文治の志あり」と十八史略にあります。そして光武帝を継ぐ歴代皇帝は努めて賢人を登用しました。たしかに三国時代の諸葛孔明も、曹操も、また維新の西郷隆盛も勝海舟も現代人が及びもつかない教養人です。
この江戸時代の教養主義の伝統は、明治以降も敗戦まで、いわゆる旧制高校などに脈々として受け継がれてきました。
江戸時代の教養主義の一つの大きな成果は、中国の古典文明を、日本的な徹底的な完全主義(パーフエクシヨニズム)で吸収したことです。今でも中国ではなかなか手に入らないような、完全な出典別の注釈のついた古典のテキストが、日本では本屋の店頭で容易に入手できます。また原文の意味をいささかも違(たが)えることなく、完全な日本語にした訓(よ)み下(くだ)し漢文も完成させています。こんなことは世界史でも稀でしょう。この背景があるからこそ、明治維新後、政治、経済、技術、文学、哲学に至るまであらゆる外国の文献を吸収消化できたのです。しかし、近代のドイツ思想の翻訳文の生硬さなどを見ると、まだ徳川時代の漢文消化の域に達していないように思います。
江戸留学初期の陸奥の勉強が本物だったことは、その後の陸奥の著作を見ると明らかです。
陸奥が獄中で著した『左氏辞令一斑(さしじれいいっぱん)』は春秋左氏伝から、近代外交の参考になる巧みな外交的表現の挿話五十五を紹介したものです。
左氏伝は今は読む人はほとんどいませんが、荻生徂徠が「何を読んだら良いでしょうか」と訊(き)かれて、常に真っ先に推奨した本です。福沢諭吉は「大概の書生は左氏伝十五巻の内、三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度読み返して、面白い所は暗記していた」と自伝に書いています。
当時の人の勉強が質量ともに現代人の想像を絶しているものだったことがわかります。とくに昔の人は「読書百遍意自ずから通ず」と、同じ本を繰り返し読むことの大事さを知っていました。そのためには寝食を節しても勉強の時間を創り出さねばならなかったでしょう。新井白石が、少年時、一日の勉強の予定をこなすために、寒中に井戸水を浴びて眠気を覚ましたという故事もあります。こうした厳しい競争でできた文治社会ですから、現代人がなかなか及ばないのも当然です。
また、陸奥が入獄前に脱稿した『資治性理談』を読むと、陸奥が、宋の朱子学、荻生徂徠の学、そしてイギリス人でもなかなか読破できない難解の書、ベンサムの『道徳及び立法の諸原理序説』を精読し、噛み砕いて自分のものにしていることがわかります。
「資治」とは、政治に資する、ということです。陸奥にとっても、学とは、世を治める学であったわけです。
もし、徳川の平和がそのまま続いていたならば、陸奥もまた、新井白石や荻生徂徠のように、漢学で一家を成し、廟堂(びょうどう)にのぼって天下の政治を掌(つかさど)り、故郷に錦を着て還る志を果たしていたのかもしれません。