一九一一年、辛亥革命で清朝が倒れます。革命の主導力となった中国革命同盟会は、一九〇五年日本で結成されたものです。
祖国の近代化を志す中国人が明治維新を達成した日本から学ぼうとするのは自然の勢いでした。百日維新が挫折したあと、康有為(こうゆうい)、章炳麟(しょうへいりん)などが日本に亡命します。日露戦争後は日本に対する期待はますます高まり、留学生は一万二千に増えます。
そして日本亡命中の孫文の興中会、辛亥革命の軍事指導者となる黄興などの華興会、章炳麟の光復会などが大同団結して、孫文を総理として中国革命同盟会を結成しました。終始孫文の右腕となる汪兆銘、議会民主主義の主唱者宋教仁もその時の同志です。
彼らの活動を容易にさせたのは、宮崎滔天(とうてん)など、日本人の間に理解者がいたことです。滔天は、自由民権派として西南戦争で死んだ長兄の影響で、子供の頃から「自由民権が何だかわからないまま、自由民権は良いことと思い、官と名の付く人間は泥棒、悪人の類(たぐい)であって、賊軍とか謀反(むほん)ということは大将豪傑のなすべきこと」と考えた反権威主義者であり、「白色人種の暴威に対抗して黄色人種の権利を回復すること」を志した三兄の影響を受けたことでアジア主義者、民族主義者という、明治の壮士の一典型でした。滔天は、親分と頼む犬養木堂と共に亡命の革命家達を助けました。
当時日本政府は、ロシアとの秘密の協約で満州を南北に二分して南満州に日本の勢力圏を築いていましたが、一つ気になることといえば、日本が大陸経営の根拠地としている遼東半島の租借期限が二五年で切れることでした。
そこに辛亥革命が起こりました。満州はもともと清王朝発祥の地で、漢民族の土地ではないということで、清朝時代は特別な地位が与えられていた地域です。その満州古朝が倒れたのですから、満州を日露勢力圏分割の線に沿って分割領有しようという提案が、陸軍や駐露本野一郎大使から出てきます。しかし、時の山本権兵衛海相は、日英同盟尊重で、ロシアと共同行動すべきでないと反対し、英米協調派の西園寺公望首相はもとよりこれに同調します。
その後も旧満州皇族を擁した満蒙分離運動が起こりますが、その都度日本政府の支持がなくて失敗し、この繰り返された挫折感が、二十一カ条要求、満州事変の伏線となります。
そこへ第一次大戦が勃発(ぼっぱつ)し、列強は極東を顧みる余裕がなくなります。当時の山県有朋の表現を借りれば、「袁世凱(大総統)が策略に富むといえども(外国の干渉を求める)手段に窮する」であろうから、日本が「従来の怠慢と誤りを正して、対支政策を一新する好機」として、提案されたのが、二十一カ条要求でした。
その第一条は、もちろん遼東半島の租借権の延長で、その後の各条は種々の利権要求ですが、最も評判の悪かったのは、第五項に含まれた最後の二条です。それは清国が日本の政治、経済、軍事の顧問を受け入れるなど保護国扱いの要求と、鉄道など外国利権に抵触する要求でした。
日本政府もさすがに気がひけて、最終案では内容を緩和したうえ、要求でなく希望条項とし、同盟国英国に事前通報するに際しても、この項は要求ではないということで落としています。
しかし、中国はこれを英国に内報し、英国は当然怒ります。また内容は英国から洩(も)れて、中国全土は憤激します。
結局は、最後通牒(つうちょう)を発して、中国に呑ませますが、内外から轟々(ごうごう)たる非難を浴びます。最後通牒発出も中国側から頼まれたと言いますが、中国側交渉者としては、自分の責任では受諾できないから、最後通牒にしてくれと言ったことは、あり得ることですが、それに乗るということは非難を日本一身に浴びるのが前提の行為です。
原敬は議会の弾劾演説で、「満蒙における日本の優越権は中国も列強も認めている。こんな騒ぎを起こさずとも、日支親善の道を尽くせば談笑の間にもできたことである」と批判し、大正、昭和を通じてリベラルな主張を枉(ま)げなかった石橋湛山は「南満州の権益だけならば、既成事実として中国側もやかましく言わなかったであろうが、結局は何の役にも立たない、そのほかの十九の要求を並べ立てて、本来問題にならないはずの遼東半島、南満鉄道まで改めて議論の的にしてしまった」と批判しています。
山県が代表する軍の単純強引な強行突破策、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省が起こした、当時から、誰もが認める愚行でした。この愚行によって、日中関係は不可逆的な衝突路線に入ったというのが、戦後史観の通念と言ってよいでしょう。しかし、その後も日中関係修復のチャンスは何度もありました。孫文が日本に何よりも期待していたのは、関税等の不平等条約の撤廃でした。それは維新以来の日本外交がそのために払った営々たる努力を思い出せば分かり過ぎるくらいわかる話です。
もし日本が後年の幣原外相のように、率先して中国の関税自主権回復に協力していたらば、孫文はもともと満州には柔軟な考えを持っていましたから、それだけで日中関係の信頼を取り戻しあまりあるものがあったかもしれません。