朝誦暮吟(ちょうしょうぼぎん)十五年 飄身漂泊(ひょうしんひょうはく)難船に似たり
他時争い得ん 鵬翼(ほうよく)の生ずるを
一挙に雲を排して 九天に翔(か)けん
−−古典や詩文を学んで十五歳となった。難破船のように身を寄せる所もない。しかしいつの日か、他との競争に打ち勝って、鵬(おおとり)の翼を得よう。一挙に雲をつき破って、大空を翔けめぐるのだ。
これは陸奥宗光が数え年十五歳の時に、苦学のために江戸へ旅立った時に賦(ふ)した詩です。
今で言えば、中学二、三年の少年の作です。しかもそれはただ漢詩の体(てい)をなしたものを習作したというだけでなく、当時の陸奥の感慨を正確に歌い上げたものであり、また、陸奥はまさにこの詩で決意した通りの一生を送っています。陸奥もまた、新井白石から吉田松陰に至る、江戸時代が生み出した早熟の天才達の系譜に連なる人物の一人だったと言えましょう。
当時の陸奥一家は、詩にある通り、落魄(らくはく)していましたが、元は紀州和歌山藩の名門です。「陸奥」という名は宗光が自ら名乗った名ですが、元は伊達という上士の家でした。
徳川八代将軍吉宗が紀州藩から出て以来、歴代将軍は悉(ことごと)く紀州家となり、江戸時代後期の紀州藩の威勢は大したものでした。紀州侯の江戸往復の際、沿道の庶民は平伏しなければならず、「表の行列なんじゃいな、紀州の殿様お国入り」と歌われた通りの盛儀でした。
その紀州の上士ですから、徳川時代のエリートです。しかも宗光の父、伊達宗広は桁(けた)はずれの大秀才でした。漢籍は当然のこととして、国学、和歌でも一家を成し、晩年には仏教や禅を究め、また歴史家としても、後に内藤湖南が日本の五大史論の一つに数えている『大勢三転考』を著して、ひそかに幕府の滅亡を予言しています。他方役人としても若い時から抜擢(ばつてき)と出世を重ね、テクノクラットの最高位ともいうべき勘定奉行となり、藩の財政再建に大いに実績をあげます。
時は江戸文化最後の華、文化、文政、天保の時代で、宗広はその社会的成功とありあまる才気で、わが世の春を謳歌します。
十八世紀ほど西欧でも、清国でも、日本でも、人々が永久に続くと思われた社会秩序を信じ、人生の優雅さを尊重した時代はないと言います。しかし、その典雅と華美の時代は、フランス革命で一転して、革命と硝煙、英雄と志士の時代の十九世紀となります。その歴史の潮流は半世紀遅れて、阿片戦争とペリーの来航で、極東の門口まで来ます。
宗広の失脚は、まさにペリーが日本に向かって航行している時期でした。宗広を重用した紀州国元の老公(舜恭公)が死ぬと、たちまち宗広は政敵に追い落とされ、自らは幽囚の身となり、家族は禄を奪われて城外に追放という苛酷な処分を受けます。
この時宗光は十歳でした。周囲に権勢を誇り、特権意識をもった家族が急に没落し、富も権力も一朝にして去り、しかも一家離散となる。こうしたことは少年でも、あるいは、自分の力ではどうすることもできない少年ほど心に深く響くものでしょう。この時以降、陸奥の人生は勉強と努力の連続、今の言葉で言えば、ハングリー・スポーツの一生でした。
後年、反逆罪で五年間収監されますが、その時夫人にあてた手紙では「一昨年来、毎朝八時から夜は十二時まで読書して一日も怠ったことはありません。大いに面白く楽しく、春の日(は長いというが)も短いように感じ、独り寝の夜(は長いというが)もちっとも長いとは感じず、退屈するということは全くありません」と書いています。
宗光の長男広吉は、「世の人は父のことを頭脳の人と言うが、私はそれだけとは思わない。あれほど刻苦勉励すれば普通の人でもあそこまでいき得るのではないかと思う。……父の遺した教訓の一つに、夜眠れない時は、何か一つ持ち出して考えてみるものだ。その考えは他日きっと役に立つ、というのがあるが、父は平素これを実行していた」と回想しています。
陸奥は才学双全の人という評価があります。才能がある上に努力家だったということです。
幕末維新は、現代人の限られた人生経験では想像もできないような、本来相容れないはずの二つの性格の長所を兼ねた人物を生み出しています。西郷隆盛は生来小心で感傷的な性格でありながら、大度量、剛腹な人物となり、伊藤博文は目先の利く実務家でありながら、明治憲法の思想的柱石となります。
現代人のとうてい及ばない教養で古人の哲学と経験を学び、かつ大変革期を身をもって処し、その間人格識見を陶冶(とうや)、成長、変革する機会を何度も与えられたからでしょう。
才学双全という表現の裏には、才子学ばず、という言葉があります。才能のある人はえてして努力しないという意味です。宗光も、もし十歳の時に一念発起する機会がなかったならば、その性格から言って、万事才気と口でごまかして、ガリ勉の徒を嘲笑するような人になったことは想像に難(かた)くありません。
それが運命のいたずらで、本来なら性に合わない刻苦勉励を自らに課したため才学双全の人ができあがったのです。