岡崎久彦
「百年の遺産-日本近代外交史(19)」


【ロシアの東進と日本】
意図見抜いて行動する小村

(産経新聞2002年4月23日掲載)

 当時の日露の国力の差を考えると、日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰(さた)でした。

 鉄や鋼の生産は、日本はロシアの三十分の一ぐらいでした。真珠湾の前にウィンストン・チャーチルが松岡洋右外相に対して、鋼の生産が七百万トンしかない日本が合計二千万トン生産する英米と戦争できるだろうか、と忠告したのと較べても、そのまた十倍の較差です。陸軍の兵力は、ロシアが日本の約十倍でした。

 それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかないと覚悟を決めたのは、結局はロシアの意図を正確に把握していたからです。

 北清事変を機に、ロシアは満州に進撃します。一九〇〇年八月にはチチハル、九月には長春、吉林、十月一日に奉天を占領して全満州を制圧します。ロシアは、満州を永久占領する意図のないことを公式文書で声明しますが、小村寿太郎駐露公使は、早くも九月二十四日の電報で、「ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう」と分析し、報告しています。

 実は、小村はそれよりも早く行動を起こしています。ロシアが満州進撃を開始した七月二十日に、この際日露両国で、韓国と満州がそれぞれの勢力範囲であることを認め合うべきだと、本省に意見具申して、十月には自らヤルタに保養中のウィッテを訪れて、それを説得しようとします。

 つまり、ロシアはどうせ満州を取る気なのだから、取ってしまう前のこの時期に、それを認めてやって、代わりに日本による韓国の自由裁量権を取ろうということです。小村の冷徹なパワーポリティックスとそれを実現しようとする思い切った行動力の面目躍如たるものがあります。

 日露戦争の後になってみれば、それはロシアにとって良い取引だったでしょうが、当時のロシアは弱小日本など相手にしません。ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアは満州を取ろうと思えば何時でも取れる、日本の承認など必要としない、むしろ満州を併合すると韓国は隣接地域となるのでロシアの方が日本より大きな利害関係を持つようになる、という返事でした。

 ここで割り切りの早い小村は、ロシアと話しても無駄だ、満州を取らせたら、次は韓国を取りにくる、と見極めてロシアと戦うしかないと臍(ほぞ)を固めるのです。これが「満韓交換論」から「満韓一体論」への転換です。

 戦後の史論の中には、ロシアにそこまでの侵略的意図はなかったという論もあります。たしかにロシアの公式発言だけ引用すればそういう立論も可能でしょう。しかし、そういう作業は無意味です。ロシアの中央アジア侵略の歴史では、英国から咎(とが)められる度に永久占領の意図もなく、それ以上進む意図のないことを確約しつつ、結果はどんどん進撃して併合しています。

 ロシアの意図は、普通の帝国主義的発想と、極東の地図を見ればわかる話です。

 ロシアという国はよくよく因果な国で、西も東も大洋への出口が閉ざされています。ピョートルがやっとバルト海に出ても、その先にはデンマーク海峡があり、黒海北岸、東岸を制圧してもダーダネルス海峡があります。東は千島、北海道から対馬に至る日本列島に出口を抑えられています。ウラジオストクの出口を扼(やく)する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない、というのはツァー(ロシア皇帝)も含めてロシア側が陰に陽に洩(も)らしているところでした。

 日本の心配はそれだけではなかったでしょう。もとより文書に残るような公式発言にはあり得ないことですが、口伝に残る当時の雰囲気では、朝鮮を取られたら、次は北海道も対馬も取られると思っていました。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後は、いずれそれが正確な判断となったでしょう。

 もちろんロシアは、英国が干渉してくることは十分覚悟していたでしょう。しかし、すでに日英同盟も結ばれ、日露戦争も始まった後で、ウィッテは英国に対して、対日講和条件として、満州、朝鮮の併合はもちろん、「日本は永久に戦闘力を失わねばならず、太平洋沿岸のロシアの優越は保障されねばならない」と探りを入れています。強国ロシアの隣で無防備となるということは、問題の決着でなく、始まりです。「太平洋沿岸のロシアの優越のため」必要な北海道、対馬などの運命は、ロシアの手に委(ゆだ)ねられるわけです。

 この強大かつ危険なロシアに勝つためには、極東がロシア中心部から遠く離れているというロシアの弱みをつくしかありません。それは完成間近で輸送能力も限られているシベリア鉄道で遥かに送られてくるロシア軍が十分に増強される前にたたくことです。事実、もし開戦が半年遅れていたら、日本の勝ち目はなかったでしょう。

 開戦時の小村外相の粒々の苦心が、早く交渉を打ち切って戦争に持ち込むことにあったのはこのためです。


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