ペリーの来航(一八五三年)から、日本の敗戦、占領の終わり(一九五二年)まで、ちょうど百年になります。
この百年は、いわば、現代の日本にとって少年期、青年期の人格形成期にあたります。この百年を曇りのない目で見つめることによって初めて、現代の日本も理解でき、将来の日本も見えてきます。
ところが、敗戦後しばらくは、こんな基本的な認識さえ失われた時期もありました。つまり、現代日本の原点は敗戦の焼け跡にあり、それ以前は考えるに価(あたい)しない忌まわしい過去だという考え方です。これは、戦後二十年余を経て、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で明治を語り、人々が「ああ、日本にもそういう時代があったのだ」と郷愁と畏敬(いけい)の念をもって過去を想い出すようになるまでは、少なくともマスコミ、評論次元では一般的な感じ方でした。
今はもう、そういう考え方の人はほとんどいなくなりました。しかし、一口で歴史を曇りのない目で見る、と言っても、それこそが歴史を書く場合の永遠、かつ究極の課題であり、決して容易なことではありません。
しかも日本の近代史は、今まで様々な偏向史観で引き裂かれてきました。
まず、明治維新の歴史は、必然的に勝者の史観、即ち薩長史観が優勢でした。封建的な古い日本が維新で一挙に打ち砕かれ、夜が明けたようになったという史観で、大筋ではそうも言えるのですが、日本民族がそれまで千年間培ってきた文明、とくに江戸三百年の高度の文化と歴史の継続性を軽視する弊害がありました。それはアメリカの占領で夜が明けたように日本が民主化したという占領史観とも、勝者の史観という点で共通する所がありました。
その後、大正から昭和の初期まで、すべての史論が許された自由な時代がありましたが、やがて国内、国際社会の緊張が高まるにつれて皇国史観が強くなり、非常時体制の下で、その他の史観が封殺されます。当時は、豊臣秀吉や北条泰時などの歴史的業績を讃える際に、皇室を尊崇したことが強調されました。秀吉、泰時が偉大だったのは、別の理由からでしょう。それは戦後のTVドラマが徳川家康や北条時宗について、歴史上の事実かどうかさえ疑わしい、その平和主義を讃えているのと同工異曲の偏向史観でした。
そして、占領中は厳しい言論統制で、東京裁判と占領政策の批判は許されなくなります。東京裁判は、満州事変以降の日本は一貫して侵略的であり悪であって、その行動は暴虐を極めたという史観であり、また、占領政策は、過去の日本は軍国主義的専制国家であって、これを占領軍の力で軍事力否定の平和的民主国家に作り直したのだ、という史観に立ち、それに対する批判は封殺されました。
このアメリカの政策は、冷戦の激化に伴い、日本を軍事的に信頼できるパートナーに育てようという政策に変わります。ところが、この占領初期の偏向史観は、日本を軍事的に弱体化させることが最大の目的である共産主義勢力の戦略と完全に一致したため、占領が終わっても、今度は、国際共産主義勢力や日本国内左翼によって、温存、増幅されて国民に深く浸透し、いわゆる戦後日本の偏向史観が形成されます。
この史観を背景として、六〇年安保、七〇年安保の反政府運動が荒れ狂い、それがおさまったと思うと、八〇年代に入って、いわゆる自虐史観という形で、今度は外国の干渉を日本側から誘って呼び込む形で再燃します。
他方、とくに左翼偏向していない一般の人々の間でも、戦争と敗戦の惨苦があまりひどかったため、史論と言えば「誰があの無謀な戦争を始めたのだ」「何が悪かったのか」という歴史の善悪是非論が繰り返されています。
歴史学の泰斗ランケは言っています。
「皆さんは歴史から教訓を学ぼうとされるが、私はそんな大それたことは考えていない。ただ歴史の真実を追求するだけである」
歴史というのは、国家と個人がそれぞれに力の限り生きてきた営みが集まった大きな流れです。戦争も平和もその中に生じます。その間、戦略の是非、外交の巧拙はあっても、倫理的な是非善悪は論じ得べくもありません。
この連載の目的は、歴史の真実、それも私の能力の及ぶ限り、バランスの取れた真実を追求することしかありません。そして、歴史がその時代の人々の努力の集積であるならば、その時代の人物を、現代の尺度でなく、その人が生きていた時代の尺度に合わせて見つめ、その努力の軌跡を追うことによって歴史の真実に迫るのが正攻法でしょう。それはまた古来の史家の伝統的な手法であり、歴史が人間のものである以上、それしかないのでしょう。
ここでは、日本の外交を中心に、日本の近代外交史を論じるので、おのずから、陸奥宗光、小村寿太郎など、その時代の外交を担った人々の軌跡を中心に追いつつ、その時代を捉らえ、歴史の真実を求めていきたいと思います。