ミサイル防衛に予算を惜しむな
数字合わせで国の備え考える愚

岡崎久彦

(産経新聞「正論」2003年8月7日掲載)

≪日米防衛協力の中心課題≫

 五月二十二日付本欄の拙稿「いつまで続く長期財政戦略の不在」で、私は財政を論じた。その要旨は、改革か景気対策かがホットな論点となっているが、こんなことは橋本内閣以来の繰り返しであり、どう転んでも数兆円の差に過ぎず、どうせ結果として毎年三十兆円以上の赤字を垂れ流し続けるのだから、こんなことができる余裕が日本にまだある間に、後世に残るようなお金の使い方を考えてはどうか、ということであった。

 その結びで、日本という国の形としていかにも歪(いびつ)なのは、防衛と情報の予算が極端に少ないことだと、その修正の必要を指摘したのに対して、どうやって防衛予算を膨らませるのだという疑問が多く寄せられた。

 何も無理して膨らませる必要はない。自然体で行けばよいのである。防衛技術は日進月歩であり、追いついていくだけで大変である。現在、その先端はミサイル防衛である。これは単に北朝鮮の脅威に備えるのに必要なだけでなく、技術立国の日本として世界の最先端技術に後れを取らない意味でも重要である。

 しかも、政治的にミサイル防衛は、今や日米防衛協力の中心課題である。アメリカの国防の主要関心が、大量破壊兵器と、その運搬手段の拡散にあることを考えれば、当然のことであろう。

 とすれば、とかくの議論はあっても、いずれ日本はアメリカのミサイル防衛計画に付き合うことになる。そのために緊急導入が必要なシステムについて言えば、今後数年間、総計で最低でも二、三千億円程度、より完全なものとするには七、八千億円程度はかかろう。

≪武器あって弾なしの矛盾≫

 要はこれだけの予算を付けるときに、他の防衛予算をその分を削るというような従来の惰性的な考え方をやめれば、全予算に占める防衛費の割合は少しずつではあるが自然に増えることになる。

 それが重要なことであるのを理解するには、かつての国民総生産(GNP)一%の上限のおかげで日本の防衛がいかに歪な形になったかの実態を知る必要がある。

 自衛隊発足時、防衛費はGNPの二%以上であった。それが、長く続いた反戦主義の雰囲気の中で、公共投資、社会福祉、環境等の予算増に負けて、一%まで圧縮されたのである。

 国防費は元来、不測の事態に備えるものであり、平時にはなるべく圧縮されて当然であるが、それにも常識の限度がある。世界中のまともな国がいくら切っても二%以下にはなかなか切れないのに、日本人がいかに天才、魔術師であっても、それを一%でやれといえばどうしても無理がかかる。

 昔から言われている弾薬不足は、その最たるものである。周辺とのバランスを考えると、特定数の戦闘機はどうしても欲しい。その要求に対して、お金の上限があるから、飛行機と搭載ミサイルの数とどっちが欲しいかといわれれば、どうしても飛行機に手が出る。弾薬は有事に米軍に頼んだりしてどうにかなると思うが、飛行機は急場に間に合わないからである。大学に入った子供に授業料と教科書代とどっちが欲しいか訊(き)くような話である。

 大学に入れた以上、要るものは要ると考えるべきであるが、お金の上限を先に決めれば、こういう話になる。

≪整備訓練費にもしわ寄せ≫

 もっと深刻なのは日頃の整備と訓練である。新規装備のために何か切れといわれて他に切れるものがないと、整備費と訓練費にまわってくる。整備費を減らせば、せっかくの装備のいざというときの稼働率が減る。訓練が減れば、精強さを世界に誇った日本軍の伝統の中でいまだ残っている自衛隊の高い錬度が落ちるという由々しき事態となる。

 このように、今の自衛隊はやせにやせ細った軍隊で、これ以上節約しようがないという事実認識があればよいのである。現に予算を増やした場合、自衛隊だけは、他の多くの官庁と違って、いわゆる「うまみのある」金に回ることなく、むしろ自衛隊員の「労働強化」そして効率改善のほうに向かうことはまず間違いない。

 やはり人間社会、最小限のものは要るのである。

 また何も一度に変えろとも言わない。ミサイル防衛の必要性を対北朝鮮防衛の必要に加えて、わが国にとって死活的に重要な日米同盟の維持強化と日本の技術立国の観点から考え、必要な予算を増額すればよいのである。その際、他の無関係な防衛予算を切るというような考え方をやめればよいだけのことである。(了)


英語版(The Japan Timesに後日掲載予定)

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