岡崎久彦
米国のリチャード・アーミテージ氏が国務副長官を離れる。さきのことはわからないが、取り敢えずは野に下るという。
氏の日米関係に対する貢献はレーガン時代に遡るが、ここではこの四年間の氏の業績を振り返ってみたい。
それは四年前のアーミテージ報告に始まる。氏は今でもそれを「ナイ・アーミテージ報告」と呼び、民主・共和の両党性を強調している。事実それが書かれた時点では、一か月後の大統領選でゴア、ブッシュ両候補のどっちが勝つか予想もつかなかった。そしてまだ野にあった共和党人士と、既にクリントン政権で勤め上げて学会にもどっていたナイ氏(元国防次官補、現ハーバート大教授)やカート・キャンベル氏(元国防副次官補、現戦略国際問題研究所副所長)などの名を連ねて、この報告を出した。
報告の情勢分析は簡潔、的確であり、提言は直截である。日本は集団的自衛権を行使すべきであって、日米同盟のモデルは米英同盟であるべきだといっている。もちろんそれは日本がお決めになることだが、とその後も必ずつける留保はしているが、それは当たり前の話である。日本以外の誰も決められることではない。
その後彼が政権に入ってしまってからは、この報告はどういう位置づけになったのかという質問に対して、私は何時もこう答えていた。「この報告は公的立場にある人がとうてい言えないことを、まだ私人の資格のうちに率直に言ったものであり、表むきは口に出せなくてもこれがアメリカの真意だと解すべきだ」と。はからずもそれが正しい解釈だと二、三年後に知った。ある国務省の日本担当者は、「あれは対日政策のバイブルだ。何かあると皆あのテキストに戻って読んでいる」と語ってくれた。
日本の新聞の中にはこの報告を葬ってしまおうと画策したものもあった。ある記者は国務省に、今でもこの報告は米政府の態度なのかと訊きに行った。
何という心無いことをするものだろうか。公式の場で言えない本音を書いたのがこの報告ではないか。答えは当然ノーであり、新聞はそれを記事にした。しかしそれは反響は呼んでいない。もう日本の識者の水準は、そんな見え透いた小細工を無視する所まで行っていたのである。
アーミテージ氏は就任後しばらく沈黙を守っていたが、二〇〇三年の暮れのインタビューで米英同盟が目標であると語り、二〇〇四年二月の東京での講演では集団的自衛権の問題にも触れた。しかし、もう日本では、アメリカが余計なことを言うなとか、内政干渉だとかいう種の反応は皆無だった。公的立場の人がそういうことを言っても良い時代になったのである。
夏には、日本が安保理常任理事国を目指すならば憲法改正が望ましい旨発言した。さすがこの時は日本が常任理事国入りを求めていた時期であり、議論となったが、アメリカの内政干渉だというような反応は皆無で、憲法改正が安保理入りに本当に必要かと言うまっとうな議論しかなかった。そしてこれを追ってパウエル国務長官が同様な発言を行った。アーミテージ報告の中で、憲法改正などは日本が決めることではあるが、「アメリカがそれを歓迎することを明確にのべるべきだ」と書いてあることを国務長官が実現したのである。
永い戦後の日米関係の中では、日本の左翼が、米国のリベラル左翼の発言を引用して、米国は内心では憲法改正を望んでいないと言う情報を流す工作をし、米政府はこれに対してどうしようもなかったこともあった。
アーミテージ氏は、民主共和両党の識者のコンセンサスと言う形でこれを克服し、ついに国務長官の正式発言とさせたのである。それに四年間かかっている。今後ここまで日米関係を親身になって考えてくれる人が現れるかどうか解らない。われわれは、このアーミテージの熱意と努力に敬意と謝意を表するとともに、この成果を守り続けるように努力すべきである。
アーミテージ氏の提言は、日本のとるべき大戦略そのものである。
世界の覇権は無敵艦隊の撃滅以来四百年以上そして予見しうべき将来にわたって、アングロサクソン、アングロ・アメリカン世界の下に在る。日本の開国以来一世紀半の歴史はその期間の一部であり、日英同盟の下に大日本帝国を築き、米英と衝突して破滅し、日米同盟の下に半世紀以上の安全と繁栄を享受してきた歴史である。覇権国と同盟していれば安全、衝突すれば破滅は当然の話である。
ただ問題は、日米同盟は日本にとっては生存の問題であり不可欠であるが、米国にとっては数ある理論的選択肢の中の一つだと言うことである。日米同盟に対する懐疑派の一つの定型的質問は、「そんなにアメリカを信頼できるのか?
頭越しに中国のほうに行ってしまうことはないのか?」ということである。一九三〇年、四〇年代の歴史的経験から来る疑問である。
それならば日本の大戦略は、日米同盟が米国にとっても不可欠のものなるように持って行くことになければならない。
その答えを出しているのがアーミテージ報告である。それは日米同盟を米英同盟と同じにしたいと言っている。米国という孤立した大陸にある世界的覇権国としては、ユーラシア大陸のフランス、ドイツ、ロシア、中国のような強国をいかに扱うかが、最も困難な課題である。米国としては、大西洋をはさんで英国、太平洋をはさんで日本と強固な信頼、同盟関係を築き、その上でユーラシア大陸問題に立ち向かうのが理想的な形である。
イラク派兵における小泉総理の迷いのない姿勢は、たまたま仏独露の非協力とあいまって、それに近い形を作った。アーミテージ氏も記者会見で報告の目的が達成されたと満足感を表明している。ただそれは彼自身指摘しているように集団的自衛権の行使の問題をのぞいてはである。イラク派遣の自衛隊が自分の安全を英国・オランダ両軍に頼りながら、英蘭軍に危険が迫った場合はそれを救えないという状態が残ったままアーミテージ氏は去ることになる。
それが今後日本に残された課題である。またそれが今後日米同盟を強化し、米国にとって日米同盟を不可欠なものにして、われわれの孫やひ孫の代まで、日本の安全と今のような生活水準を維持して行くための王道である。
(了)