岡崎久彦
蒋介石はすでに満州事変の前に、「強大な日本軍に抵抗するのは自殺行為であるが、日本は米英ソに対して、いずれは負けることが確実な大戦争を引き起こすと予想され、その時こそ民族復興のチャンスである」と言っている。
この戦略は、資本主義国同士を戦わせるという共産党の基本戦略、中国では、国共合作により蒋介石の鉾先を日本の方へ向けさせるという戦略に敗れて国民党は没落するが、その大局的見通しはその通りとなった。
日英同盟が切れていたのがそもそもの致命傷だった。日英同盟健在ならば、昭和天皇と重臣たちの意向で同盟国英国との協調が常に優先していたであろう。たとえ満州事変は起こっていても、英国苦心の好意的提案であるリットン報告書の線で収まっていただろう。
そして、地理的に隔絶し、アジア問題に何の力にもならない独、伊との連繋は、かえって反ファシズム戦線を主張するソ連主導のコミンテルンと正面から対立することになった。また、シナ事変が始まるとすぐに米大統領、ローズベルトは「隔離演説」を行い、日本はその定義による無法国家の一つとなった。
キッシンジャーは、自由を守り、アメリカを守るために米国の参戦を実現させたローズベルトの業績を高く評価しているが、この隔離演説は日本を真珠湾攻撃に至らしめる大戦略の第一歩であった。
対米戦争を避けるためには、中国からの撤兵と三国同盟の事実上の解体が二つの必要条件だった。それは中国大陸の戦局に見通しを失い、また一九三九年の独ソ接近、四一年の独ソ戦争と、何度もドイツに煮え湯を飲まされている日本としては不可能な選択ではなかった。しかし、国内の反対を押し切るには最高指導部の決断を要し、それを実現する唯一のチャンスである近衛・ローズベルト会談が断られてからは、もう後はたとえ何らかの了解が成立しても、破局を何カ月か先延ばしするだけの状況となっていた。
戦争は、真珠湾攻撃という戦術的には大成功であったが、戦略的には、日本が先に手を出したという非難を後々まで何度も何度も使われる大失敗によって始まった。
戦術的に優位を占めた日本は、インドネシア、ビルマ等の民衆の熱狂的な支持の下に全東南アジアを席巻し、全アジアは解放の興奮の坩堝(るつぼ)と化した。
大東亜戦争には、いまだに侵略史観とアジア解放史観があるが、そもそも戦争は「死生の地 存亡の道」であり、百パーセント勝つ自信があれば別だが、他国の領土資源を取ろうという侵略的目的や、他民族の解放という利他的目的で国運を賭する国はあり得ない。石油禁輸で追いつめられて一か八かで始めたのが実相である。
ただ戦争目的は途中で変わっている。一九四二年暮れの御前会議で、中国とのあらゆる不平等関係を撤廃し、戦後は全軍を撤兵する対支新政策が決定され、杉山元参謀総長はこの方針は「懺悔録」であり出先の軍に徹底させると述べた。もはや誰も異存のない政策だった。
重光葵によれば「東亜の解放、アジアの復興こそ日本の使命だと悟り、日本人は漸次悪夢から覚めた」のである。満州事変の前から中国問題にかかわってきた重光の感想だけに重みがある。重光はこれを全占領地に及ぼす考えであり「大戦突入後日本人の視野が広くなった」と観察している。大日本帝国破滅のほんの三年前に日本人はやっと大国民となったといえる。
しかしすべては遅きに失した。まさに時を同じくするガダルカナル、スターリングラードの敗北で戦局はもはや挽回不可能となる。
戦争の意図と結果は別の問題である。歴史は平和時には緩慢に動くが、戦時には激変する。大東亜戦争は、その当初の目的とは無関係にアジア民族解放の時計の針を不可逆的に何十年か進める結果となった。
それは善悪是非など超越した歴史の大きな流れの中で起こったことである。その激流が洗い流したあとの世界に、今われわれは生きているのである。
編集部註:これは2001年9月18日から12月8日まで産経新聞朝刊に連載された連続歴史エッセーの岡崎担当分である